一枚の航空写真

      2016/08/08

大井町の総和会館で、目に入った写真に驚いた。昭和19年陸軍が撮影した、篠窪あたりの航空写真だ。驚くことにわずかな家と、屋敷林を除けば、全ての土地が耕作されているのだ。

丁度おられた、町会議員のNさんに当時の大井町の様子を窺うことが出来た。
「この家は三嶋神社だろう。この道は峠から渋沢に抜ける道だから、するとここはお寺さんだ。家の数は今と大して変わらんな。畑は麦か野菜だな。麦が多かったよ。米が作れないから、麦を作って食べたんだ。クワだけで、何処もかしこも耕したんだ。馬も少しはいたな。少々の斜面なら、段々畑にして、何処でも畑にしてたもんだ。」

「それでも屋敷林だけは、残したんだ。当時はなんと言っても燃料が大事だった。燃し木がなければ、煮炊きが出来んからな。それで、嫁にやるなら、山田か、内山と昔は言ったんだ。嫁さんが、燃し木で苦労しんからな。」

陸軍が何故、敗戦濃厚な時に、こんな航空写真を撮影したのだろう。不思議な写真だ。今の篠窪は、小松製作所の研究施設を除けば、殆どが雑木林の山だ。篠窪の地勢は標高200メートル前後の傾斜地が続く。この斜面を、人力の鍬だけで耕しつくしているのだ。麦、野菜、桑が栽培されていると思われる。残念ながら、作物の判別までは出来ない。

当時は食糧増産が言われていたが、使える機械もガソリンも無い。「人耕して天に達す。」とはこのことだ。昭和19年、日本の人口は7000万人、自給自足で暮していた。日本の国土が最も高度利用されたときかもしれない。

足柄地域の統計を調べてゆくと、更に驚くことが判った。神奈川県で一番農業が盛んだった時には8万戸の農家があった。それが、今は2万8000戸。それも農家とは名ばかりの兼業も入れてだ。耕作面積では4分の1になった。優良農地は、道路や宅地に変わり、耕作困難地は放棄されている。それでも更に、放棄地は増える一方だ。

昭和25年が、耕作地の面積、農業人口ともに、ピークを迎えているようだ。外地からの引き上げ、極度の食糧不足。そして人口の急激な増加。食糧輸入する経済力は無いのだから、ひたすら増産するしかなかった。

私の暮らす小田原舟原でも、今見えている山は殆どが畑だったという。確かに、今も山を歩くと杉林の中に、コンクリートで作った水槽だけが残っている。舟原が箱根への最後の古くからの集落だが、その奥の標高300を越えた辺りに、和留沢という戦後開拓の集落も作られた。何せ舟原から、2キロの道が、歩きの道だから、ここでの開拓も、困難を極めたようだ。それでも六〇戸の家があった時が、ピークで、今は12戸と聞いた。

戦後開拓を考えると、あまりの状況の変化に、怖くなるものがある。海や湖水を干拓して農地を広げる方向まであった。ドミニカ移民のように外務省が、偽りの情報を出してまで、移民を奨励していたことさえあった。農地、食糧生産の国の予測は大きく外れた。今中南米から、出稼ぎに来る、日系人はそのことをどう考えるのだろう。

この先の予測も、国は誤っていると思う。すでに、迷走飛行に入っていると思う。操縦管のコントロールが利かないので、落ちないように、無理やり出力を上げようとすれば、不時着すら出来ずに、空中分解するかもしれない。そんな日本の状況だと思っている。パイロットが、ともかく悪い。

しかし、何とか不時着さえ出来れば、あの航空写真を見ると、人間やれば出来るのだと、勇気がわいてくる。

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