安青錦大関になる。

安青錦、すごい力士が出てきたものだ。これだから大相撲は面白い。安青錦の相撲はまさに親方が口を酸っぱくして言うが、誰にも出来ない相撲なのだ。身体を低くして当たる。頭を上げないで前に出る。そして脚はすり足。この相撲の基本に従う相撲なのだ。
安青錦には、基本に従う相撲が取れる滅多にいない力士だ。基本通りの相撲は、辛い稽古のたまもの。最近の力士は自分の身体の大きさで取る相撲だ。基本を守ることが出来ない。簡単に言えば、基本に忠実であるのは一番だが、その辛い稽古が出来ないと言うことなのだろう。
安青錦新大はウクライナから戦火を逃れて、日本に来て、相撲取りになった。わずか3年で優勝して大関になった。これほど早く強くなった力士は過去いない。ウクライナの悲惨な状況が背景にある。横綱になるのが目標だと口にしている。そして日本に帰化したいと言っている。
日本一の横綱と言えば、大鵬である。その大鵬のお父さんはウクライナの方だった。樺太が日本だった時代があり、樺太で生まれた白系ロシア人だった。白系ロシア人とは、共産政権に追われて日本に逃げてきた人たちのことだ。かなりの数の白系ロシア人が日本に避難し、帰化した。日本の敗戦に伴って北海道に渡ったのだろう。
ウクライナにも相撲があるらしい。大鵬が日本一の横綱になり、ウクライナでも評判だったと言うことから、相撲人気が生まれた。安青錦は7歳の時から相撲を始めたという。ところがウクライナ相撲は組み合ったところから始まる、モンゴル相撲に近いものだったらしい。
組み合って始まるすもの場合、ウクライナでは小さい方である安青錦は、独特の相撲を生み出す以外に無かった。大きな身体の相手の身体の下に潜る相撲である。潜って潰されないだけの背筋力を付ける相撲。そして小股すくいや足取りである。
千秋楽大関琴櫻には小股すくいで勝った。横綱豊翔龍には足取りで勝った。ウクライナ相撲で培った独特の技の切れである。子供の頃から、小股すくいが得意技で、子供大会では小股すくいだけで優勝したこともあるそうだ。琴櫻が突然這いつくばった。あの素早い技の切れには驚いた。
戦火を逃れドイツに暮らしていたとき、日本で行われた、相撲のジュニア選手権に出場した。そこで知り合った関西大学の相撲部の山中主将を頼り、戦火の起きたウクライナから、日本に避難できないかと手紙を書いたという。この山中さんは、すこぶる好青年で頼りがいのある方なのだ。
22年4月に単身来日。山中さん宅に身を寄せ、相撲部の練習生として稽古した。そして山中さんの高校時代の恩師のつてを頼って安治川部屋に入門した。山中さんは今は関西大学の相撲部のコーチのようだ。同じ日本人として素晴しいことをしてもらえたと感謝している。
戦火のウクライナから若い友人を、よくぞ、呼んであげてくれた。自宅に泊めてあげ、大学の相撲部で稽古を出来るようにしてあげたという。相撲の友人に、ここまでしてあげられる人は滅多に居ないだろう。素晴しい人格者である。安青錦は中山さん宅で暮らしながら、日本語を忽ちに覚えたのだ。
23年秋場所で初土俵。しこ名の下の名前は、山中さんから「新大」をもらった。そして忽ち強くなり、十両力士になるまで4敗しかしなかったという快進撃である。幕内はすべて11勝で通過した。関脇二場所目の3年目には優勝して、見事に大関になった。生涯成績は116勝31負である。
この信じがたいほど急速に強くなった理由は、安治川部屋の親方であると考えて良いだろう。もと安美錦の科学的な指導がある。安美錦の相撲は技術的な相撲だった。理論が確立されていた。安治川部屋という新しい部屋を起こしのは、その自分の相撲理論に従った指導したかったのだろう。
それが安青錦には幸いしたのだろう。理論に従い学ぼうとするウクライナ人であるから、理屈の筋が通っていなければ学べなかったはずだ。無理編に拳固と言う指導では、身体の小さな安青錦には役に立たなかったはずだ。大相撲にも科学的指導法が生まれてきたと言うことである。
この科学的な指導が、伝統的な相撲の基本に沿っていたというところが、相撲の技というものが、江戸時代から確立していたと言うことになる。千代の富士、若乃花、栃錦などの名横綱の相撲は、見事に基本の相撲だった。身体の大きさなど余り意味がなかった。
稽古のたまものなのだ。これが余りに厳しいから、もう普通の日本人は耐えられないものになり、基本に従う相撲は絶て久しかった。ところが、この厳しい基本稽古を耐え抜いたのが、戦火のウクライナから来た安青錦だったのだ。戦火の中で地獄を見た人だから耐えられたのだろう。
相撲の面白さは丸い土俵で勝負をすると言うところにある。15尺の4,55mの丸い土俵を考え出したために、素晴しいスポーツであり、芸能になった。江戸時代は13尺だった。土俵の大きさが丸く定まったために、身体の大きさが決定的なものでなくなったのだ。
歴史的に見ると、当初は土俵はない。モンゴル相撲と同じだから、中近東方面から、伝わったものなのかもしれない。それが、徐々に聖域での神の前で行う力比べになる。石を持ち上げるというようなものもある。綱を引くものもある。最終形として人間同士が勝負をする相撲的なものも生まれたのだろう。
日本では縄文時代には始まっていたかもしれない。体力勝負の時代、人間の価値は体力で決まる。体力がこれだけありますと言うことを、自然神の前で披露すると言うことが、神事になったのだろう。それが、漁の多くあることを願う神事になる。農耕が始まれば、豊作の願いに力比べが連なって行く。
その力比べは、若者の成人の儀式になる。体力を増強するための競技化である。体力を付けることが生きる術であるから、力比べが生まれ、相撲が誕生する。神事である相撲を興業化したのが江戸時代である。何でも面白くしてしまう江戸時代の生きることを楽しむ文化として、花開いた大相撲。
大歌舞伎も大相撲もある。地方の巡業一座もあれば、地方地方の相撲もあったのだろう。様々な娯楽が生まれ、変化のない社会の楽しみとして相撲は洗練されて行く。興業として成立するためには、丸い土俵は必然だっただろう。周りからよく見えるようでなければならない。
そして明治時代になると、統合され現代の大相撲が整備される。江戸時代には興業として行われていた大相撲が、伝統文化であること、神事であることを強調され、文明開化の世に生き残りをかけたることになる。何やらここで日本が強調された理由には、富国強兵の明治帝国主義の時代背景がある。
こうして、ちょんまげを結い、和服を着ている相撲取りという、江戸時代ままの姿が、あくまで再現されたのだ。断髪帯刀が相撲取りには、免除され残されたわけだ。それが現代まで継続され、ちょんまげ姿というものが、貴重なものになり、それだけでもまさに伝統文化だ。
その相撲についにヨーロッパから大関が誕生した。ハワイからの横綱。モンゴルからの横綱とすでに国際化している。アメリカにはSUMOと言う、すもうに似た興業がある。回しの下にスパッツを着けている。女子SUMOもある。どちらかと言えばプロレスに近い。
日本の大相撲でSUMOの力士が参加すれば、異種格闘技となって、ルールの調整が難しいことになる。それはモンゴル相撲でも同じことだろう。そうした相撲の変化の中で、安青錦が、日本人の力士が忘れてしまった伝統的な相撲を身につけて、見事な大関が誕生した。
むかし、岩風という力士がいた。潜航艇と呼ばれていたのだが、まだ戦争の余韻があったのだろう。安青錦の相撲は岩風を思い起こす。岩風も前に落ちなかった。しぶとい地味な相撲だったが、いぶし銀相撲だった。忘れられない力士である。
安青錦の登場は、大相撲に新しい流れを作るかもしれない。新しい流れは古い伝統のの匂いをさせている。厳しい肉体の鍛錬を有する精神力。大相撲はいつか世界遺産になるだろう。さらに古い相撲の伝統を探り、神事を季節ごとに行うようにしたらいい。四季のある日本の美しさを世界に表現するようなものになれ。