植物工場の廃止と転売
2025/05/28
植物工場という物が一時騒がれた。もう20年ぐらい経つだろうか。これからの時代は食料は工場生産になるという奇妙な話があった。間違ってもそんなことはない。政府の空想の矢の話である。何しろ農業の国際競争力を主張して、アベノミクス政府は、瑞穂の国を掲げながら、植物工場をスマート農業の手本として、補助金を出して推進したのだ。
目先の賢い大企業も相次いで、人工光の野菜工場を開始をした。小田原の久野にある三国工場でも、工場が農業を始めた。戦時中は軍需工場だった。そのころからの汚染物質が、地下水汚染を起こし、下流地域では井戸水が飲めなくなった工場である。会社の歴史を見ると、植物工場については、記載がない。たぶん今はもうやめたのだろう。
補助金を貰い、本来手に入らない農振農用地に、補助金を貰って大工場を作る。そして倒産する。辞めた農業工場跡地を、不動産企業が購入する。そして、昔の農振農用地にホテルでも作る。なるほど政府の考えるスマート農業とは、こう言う仕組みなのかと思う。転んでも見返りはある。
石垣島でも、畜産団地を補助金で造成した。山に立派な道を作り、整備をした。そして、さして時間が経過しないうち、今度はその畜産団地の農地を、大企業のゴルフリゾ-トホテル用地として、転用をした。こんなことが当たり前に行われるのが、姑息な知恵者が行うスマート農業である。こう言う怪しい事業が中山市長は得意なのだ。
植物工場は、政府が施設整備の補助金など150億円規模の支援策を導入した09年度から普及が加速した。と書かれている。LED照明の技術が進歩したことも追い風になり、人工光型工場は09年当初の34か所から今年2月には191か所に増えた。そしてほぼすべての工場で赤字経営になっている。倒産も連続して起きている。
そういう流れは分かっていても、全くかまわないのがスマート農業の企業参入の味噌だ。転んでもぼろもうけできる企業の農業参入である。いったん施設が建てられた農地はリゾート転用でも、住宅開発でも、工場建設でも政府のお墨付きである。そういえば、ミクニでは農用地にあると思われた社宅は今は無くなった。
アベ政権時代に始まった野菜工場は最近になり相次いで閉鎖されている。アベノミクスの第3の矢が失速した事例はかず限りなくあるが、その代表的事例である。何故失速したかと言えば、理由は当たり前すぎる。自然から離れた野菜が、ろくな野菜になるはずがない。
企業が農業に手を出す理由は、政府の出す補助金と、農地の転売による利益の還元である。都市近郊の農家はこう言う農地の宅地化で、思わぬお金を手にした。そういう友人を何人も知っている。都市近郊農家が不動産屋さんのようになった。
しかし、牛小屋に外車を泊めていた同級生Mさんの家も、そのときに、ガソリンスタンドを始めて失敗した。すでに農地は投資に回されていて、すべてを失ってしまった。彼の家が農家だったのは1962年。よく遊びに行っていた。戦前からの大農家の風格があり、素晴らしい一族が暮らしていた。
食べ物は身土不二である。太陽を浴びず、土から離れた野菜など、身体に良いはずがないだろう。そんな物が虫が居ないとか、衛生的だとかだまされる購入者がおかしい。「汚いはきれい。綺麗は汚い。」である。微生物一つ以内植物など、綺麗で汚いの代表的産物である。
確かに物珍しさから一時ぐらいははやるだろう。だまされる消費者もいるかもしれない。高価な作物として販売されるかもしれない。しかし本質的におかしな物である。不自然な食べ物が永続するはずがない。こんな人工作物が有機農産物として販売されるとすれば、一体有機とは何なのかと言うことになる。
人間は自然の中に生きている。人工光の中で長時間人間が暮らしていたら、必ず病気になる。自然光と人工光は似て非なるものだ。人間の作り出した光は足りないものばかりのはずだ。自然の中には人間が分析しきれない物がいくらでもある。植物が育つからと言って、食べ物とは言えないはずだ。
野菜だって生き物として同じだ。人間の命は自然と一体のものだ。身土不二である。自然の摂理から外れた作物が、食べ物として十全のはずがない。やらなくても良いことをやろうとする理由は、自然を甘く見ていると言うことだ。自然を敬う心があればやれるはずのないことだ。
自然の摂理から外れた物が、スマート農業というのであれば、人間が死滅して行く課程である。火星移住の前哨戦である。火星に行ってまで生きたいとは思わない。健全な人間は自然の中で生まれる。当たり前すぎる命の摂理である。自然から外れたことが、経済性だけで成り立つはずがない。
野菜工場は自然の成り立ちに破れたのだ。人間がおかしな人工野菜で病気を発症する前で良かった。これからはこうした妙な新産業が次々に現われるはずだ。まともな物は自然に従っている。その一点である。難しい安全基準など入らない。自然から外れた食べ物は避けた方が良い。
日本の大規模農業の推進も、野菜工場の発想の二の舞になってはならない。最も重要なことは自然である。コンピュター革命で、自然のすべてが解明できるわけではない。例年通りなどなくなった、気候の条件の中で、どうやって大規模農業を維持して行けるのか、百姓の知恵も借りる必要がある。
農業の生産性を上げるためには大規模農業しかないということはわかる。国際競争力も確かに必要である。しかしその大規模農業も、日本の水土に従ったものでなければならない。日本人が稲作で生まれたように、大規模農業で日本人が作られるようになる。大規模農業の形は健全でなければならない。
食糧生産は国の成り立ちの基本である。経済の合理性だけでは割り切れない部分がある。例えば豊年祭のために、五穀の生産を続けている方がいる。その方の生き方である。日本人の精神世界食糧生産が連なっているのは当然のことだ。
経済の合理性を優先して農業を行えば、プランテーション農業になる。いわゆる植民地農業の歴史だ。日本の大規模農業が外国人労働者によって行われる。こういう方角は間違っている。コンピュター革命を通して、肉体労働というものが変わるはずだ。健全な労働が肉体労働だとは言い切れないが、よほど考えておかなければならない問題である。
どうしてもここに戻るが、自給農業は残す必要がある。人間が自分の体を使い、食糧を生産する原点を忘れないためにも、若いうちに自給農業体験をする必要がある。この原点から人間が離れてしまうと、トランプのような人間になる可能性が高まる。
義務教育の中に作務教育が必要になるのだろう。たぶん政府はそいう方向は、さらに切り捨ててゆくことだろう。そうしなければ、経済競争に敗れるという強迫観念に支配されている。人間の精神がコンピュター革命によって、狂わされてゆく可能性が高い。自分の手で食べ物を作る。この簡単なことを忘れないように。
のぼたん農園の方角はそこにある。自己確認の農場である。農作業が人間というものの原点を教えてくれる場所である。自然に従わない限り、自給農業は不可能である。観念であれがいいこれがいいといったところで、自給はできない。できなければ飢え死にする。この基本実践である。そこで獲れた食べ物だけで生きるという、課題を忘れないことだ。
まだ、石垣島ではできていない。10年はかかると考えている。今4年目である。仲間とその挑戦をしている。まずこれまでの挑戦は、小田原での方法は通用しないということが分かったぐらいのところだ。そして4年目でいくらかづつ見えてきた。わからないことが分かるという喜び。わかったと思っても失敗する挫折感。このすべてが、自給農業の大切さだと思っている。