水彩人を作った頃のこと

水彩人を作った頃の話を記憶の残っている内に書いておこうと思う。もうすでに半分は忘れかけている。多くの今の水彩人展の参加者は、出来た頃の作らざる得なかった気持ちのことなどは、知らない方が増えたのだと思う。水彩人のホームページには略歴が掲載されているので、そういうことより、どんな思いで水彩人が始まったのかについて、記録しておきたい。
水彩画についてもっと研究そなければならないというのが、水彩人を始める動機だった。そのためには水彩の制作者が相互批評を深める研究会が必要だと言うことで、水彩人は出来た。そういう場が水彩画の公募展の中にはなかった上に、水彩画は日本では本格的な材料とは認知されていなかったからだ。
水彩画というものは今でもそうであ美術美術大学には学科としては存在しない。水彩絵の具はどういう性質の材料であるのか。水彩画の技法の特徴はどういうものなか。基材としての紙はどういう成り立ちであるか。こうしたことが曖昧なまま、本格的では無い技法として扱われてきた。
水彩画というもの自体がが突き詰められていない。材料としては一番古い材料なのかもしれないが、水彩材料の絵画としての生かされ方が、あいまいなままだ。今思えば、水彩材料の絵画材料としての探求は、専門的にはほとんど行われてこなかったといえるほど未熟なものだった。
一部の日本画や油彩画の作家の人が、下書きやスケッチに利用する簡易な材料という扱いである。そして小学生が使う材料という、一段下の材料という認識が広がっている。ところが使ってみると、どうも油彩画や日本画では表現できない、水彩画独特の世界が広がっているらしいと言うことに気付いた。
ところがこの点が水彩ではきちっとした研究成果が残されていない。つまり研究の結果としての絵が無いのだ。その点、油彩画や日本画の世界では長い年月をかけて、深い研究が行われている。ほぼ研究的には分解されつくしている感がある。
水彩画表現は素早い直感的な表現と言うことで片付けられてきた嫌いがある。手軽な材料だから、手っ取り早くその時々の感覚が表現できるという捉え方では無いだろうか。構築的な確固たる絵画表現を行うなら、水彩では無く、日本画か油彩画と言うことになる。
水彩画を絵画材料として、社会的に認知させようと生まれたのが、日本水彩画会だったのだろう。そこから現代水彩という考えが生まれて、分派して水彩連盟が出来た。私はその水彩連盟に所属していた。しかし、水彩連盟の中には水彩画を相互研究するような、場もなければ空気も無かった。
水彩画と言うより、アクリル画の団体という意識の方が強くなっていた。油絵を描く傍らアクリル画を描いて水彩連盟に出品している人が多く、私もその一人だった。会員になるまで一度も水彩画というものを描いたことが無かった。アクリルで油彩画の真似をしているのだから、水彩の研究が進むわけも無い。
30代後半絵に行き詰まり、油彩画もアクリル画も描けなくなった。そうしてすこしづつ再開したのが、水彩画であった。その時は水彩画は小学校以来という状態だったのだが、始めて見ると、日本の自然を描くためには油彩画よりもずっと色が出しやすいと言うことの発見になった。
水彩画にどんどん引き寄せられた。持っていた油彩画の材料は一切廃棄した。水彩画を風景を前にして描くと言うことに興味が湧いた。絵を描く意欲が改めて湧いてきた。もっと水彩画を勉強したいと言うことで勉強会を始めた。油彩画家の春日部洋さんに誘われて始めたものだ。春日部先生も水彩画を研究したかったのだ。
描いた水彩画を毎月持ち寄り、春日部洋さんを中心に批評会を行っていた。ある意味水彩画の方法はまったく未開拓だと言うことが分かった。水彩画の作家にも様々な人が居るが、技法としてはまだまだ研究がされていないという印象を受けた。
紙や材料や筆に関しても、情報を持ち寄り勉強しようとはしていた。なかなかそこまでは進めないではいたが、ファブリアーノの水彩紙と隈取り筆にたどり着いた。ただ、水彩画特有の色の在り方や、和紙の利用方法はすこしづつ勉強会を通して学ぶところがあった。一人では水彩画の研究は出来ないと言う事を痛感した。
水彩画というものが、素晴しいものであるにもかかわらず、その評価が低いし、水彩画の作家と言えるような人が日本には居ないと言うことがあった。まだ水彩絵の具を生かした絵というものは現われていないような気がしてきた。
たまに見る水彩画は油彩画家のスケッチか、画家というよりはイラストレーターの原画と言うことが普通だった。今は当時よりは少しましになってきたかと思うが、今でも水彩画というものは、日本画家や油彩画作家の余技のような扱いを受けている。
その頃水彩連盟展にいたのだけれど、互いの絵のことを話す人がまずいなかった。特に自分より年配の人の絵について意見を述べると、とんでもない奴だというような、妙な雰囲気が支配していた。絵はそれぞれが研究するものだと言うことになっていた。それなら何故、公募団体をやっているのかと疑問を持った。
これでは一緒に展覧会をやっていても、勉強にはならないと言う気がしてきた。公募団体の中でグループ展というものが運営されていても、勢力争いの一団というような類いだった。これでは少しもおもしろくないので、血の出るような厳しい勉強会のグループ展をやろうと言う仲間がすこしづつ現われた。
それは春日部先生とやっていた勉強会が自分にはとても重要になってきていたと言うことでもあった。その頃に成ってやっと水彩画の特徴がだんだん見えてきたと言うことである。油彩画のように「もの的な存在感」で描くのではないと言うことを感じ始めていた。
油彩画よりも対象を還元するようなこと。対象を自分の内部感覚に置き換えてゆく事ができる材料、というようなことが自分なりに分かり始めた。水彩画には油彩には無い魅力があると言うことが見え始めて、水彩画にますます引き込まれていった。
そこで、勉強会展をやってみようと言うことになった。水彩人展はグループ展として始まった。水彩画の研究を行うことだけを目的にしたものだ。その気持ちは、松波さんが書いた声明文にある。ところが、水彩連盟展の中ではグループ展は勢力争いのためだとされてしまい、誤解をされることになった。
そして、水彩人展を続けるなら、水彩連盟を辞めてくれと水彩連盟が決定した。水彩画の研究を続けたいと言うだけなのに、どうしてこんなことになるのか分からなかったが、もう馬鹿馬鹿しくなって退会することになった。水彩人の方が水彩画の勉強になるからである。
私は今でも水彩画を共同研究したいと言う気持ちで水彩人展に関わっている。水彩人展も二〇年を超えて公募展としてやってくると、水彩人展が水彩画の勉強会なのだと言うことを、理解していない人も多くなる。また忘れてしまう人も出てくる。これからも原点に立ち、水彩画の勉強会としての水彩人展を続けてゆきたいと考えている。