舟原ため池のカキツバタ

草刈り前

草刈り後

カキツバタ株分け後
小田原市久野舟原に江戸時代初期にできたと言われる溜池がある。小田原市の貴重な農業遺構として整備をさせて貰っている。小田原では唯一の溜池であり、江戸時代初期の貴重な農業遺構である。この場所は小田原市の市有地である。
美しい久野の里地里山の会が管理委託を受けて整備をしてきた。だいぶ状態は良くなり、以前の溜池の姿が戻ってきている。年5回ぐらい草刈りをしなければならない。今回も小田原に来ている間に草刈りをした。田植えと重なったので、3人での草刈りになった。
今回は溜池の中のカキツバタの株分けをしたかった。秋に株分けをするようにしている。カキツバタはずいぶん増えて、見ごたえが出てきている。これを溜池の上の池全体に広げれば、その美しさで溜池も誰かが保全を続けてくれるのではないかと考えている。
カキツバタは通販の園芸店から購入したものである。そこにあったものではない。最初10株を購入して植え付けたが、すべて枯れた。翌年もう一度植えて寝ずいた。それが今は350株にはなった。ここまでくれば、もう一息で池の半分くらいまで広がり見ごたえが出てくるだろう。ため池の整備が出来ることが小田原に来る目的の一つである。
上下の2つの池の境目にある堤に太い管が3本埋められているのだが、その管の周りから水が漏ってしまうようになった。冬の水が減少した時期に、ここを直すつもりだ。池に水が溜まっていれば草はある程度抑えられる。水が溜まるようにしなければならない。
カキツバタを選んだ理由はここが一つ下の欠ノ上集落の田んぼの為の溜池だったからだ。田んぼに似合う植物はやはりカキツバタである。あの目の醒めるような青は田植えを始めた淡いみどりによく似あうと思う。そして、水生植物の中では管理が特に必要がなく、自然に自生してくれる楽なものだからだ。
農業遺構である溜池に花を植えた意味は、美しい場所になれば農業遺構として潰されないと考えたからだ。もともとは溜池は4つあったそうだ。ところが、3つにはごみを運び込んいつの間にか埋めってしまったのだ。市有地だったのだから、管理が不十分だったという事だろう。
唯一、車では入りにくかった一番上の溜池だけが残された。それでもごみで半分は埋もれていた。管理されない場所はいつの間にかごみ捨て場になる。ごみを少しづつ片づけてきたが、まだ土の下にはごみがある。ごみを集めてそこでたき火をして燃やしていて、怒られたこともある。

溜池の周りには田んぼや畑がある。ここは酒米の山田錦の田んぼだ。とても良くできている。この田んぼは麦とイネの二毛作を続けている。これで2年目である。1年目よりずいぶんよくなった。2毛作を続けると土壌が良くなるという事を見せてもらった。
20年前は一番上の溜池の半分だけが唯一残されていた。そのあたりだけが水を満々とためていて、オシドリのつがいが泳いでいた。たぶん芦ノ湖あたりと行き来していたのではないかと思う。その美しさがあまりに印象的で何とかこの溜池を美しい場所として残せないかと考えた。
それから20年間紆余曲折があり、やっと権利が明確にされた。小田原市の所有地に明確になった。書類上は旧久野村の登記が残されていた。それ故に、小田原市が合併したときにその権利は小田原市に移管されなければならなかったものだったのだ。
そして、溜池の管理契約を里地里山の会で請け負う事になった。管理者がきちっと存在しない限り、小田原市も正式な登記に移すことがためらわれたという事もある。もともとの水利権は欠ノ上の集落にあった。一年に一回草刈り管理をしていた。
ところが、欠ノ上ではその水を利用して田んぼをやる人が減少した。水利組合での管理が負担になり、管理が出来なくなった。その為に業者にお願いして草刈りをするようになった。欠ノ上の水利権者に権利を放棄してもらうことを小田原市が依頼して実現をした。
年5回の草刈りをする。この冬には溜池の中間にある水漏れをなんとか塞ぐつもりだ。大豆の会の収穫が11月第3週。その翌週あたりが大麦の播種。この前後に工事をしたいと思っている。2日間あれば工事は可能という事だった。

溜池の上にある農の会の大豆畑である。全体で2反少しあるのだろうか。鹿が来るので高いネットで張り巡らせている。ため池の周りの放棄農地は今はあしがら農の会で耕作している。この大豆の収穫が11月第3週という事である。その前後にはまた小田原に来る。
カキツバタの株分けである。1日目の10月2日は草刈りで精いっぱいだった。頑張ってやり過ぎて少し疲れた。3日にカキツバタの株分けを行った。午前中楽しんで作業した。大株になっているところをシャベルで切り分けて、まだカキツバタのない場所に植えこんでいった。
一昨年、昨年と植え替えは枯れる株もなく、倍、倍と広がった。今年植えれば2列になり、池の3分の1ぐらいになるだろう。いつか上の池はカキツバタが一杯になり、それを見に人が来てくれるようになるに違いないと思っている。
舟原ため池が出来た江戸初期に久野は水田が一気に増えたようだ。そして集落には人が増え、久野村が出来た。そうした久野の人の暮らしの歴史を感じることのできる大切なため池だと思っている。久野で田んぼがいつまで続くのかも不安である。
小田原城が武士の遺構とするなら、庶民の遺構である溜池は、私にはずっと重要だ。なくなることで、人間の暮らしの歴史が見えなくなる。いつか小田原城よりも、舟原ため池の価値の重要性が理解される時代は来るはずだと思っている。