孤独を評価してはならない。

   


 甲府盆地から、南アルプスを眺める。

 人間すべからく引きこもりになれといわれているのがコロナの世界である。もう1年以上の自粛生活が続き、こころの限界が来ている。このままでは人間の精神がだめになってゆく。無策の政府に従って、引きこもりを続けているのでは、精神を衰えさせてゆくにちがいない。

 むしろ、コロナ世界でも奨励されるべきものを考えるべきだ。政府の枠を示さない自粛要請に騙されてはならない。野外活動は基本的に問題ない。一番良いは農作業ではないだろうか。草花づくりもいいのではないだろうか。密にならないそういう場所を、本来政府は準備し、推奨すべきことなのだ。

 飲酒、マスクなしでの会話、満員電車、共同生活、共同利用の部屋。これらは要注意である。それを責めるのではなく、感染リスクの少ない行動を紹介するべきなのだ。そして、弁当を持って出かけることを奨励すればいい。水筒とおにぎり一つでもいいではないか。家にこもっていては多くの人が限界に達するだろう。誰だって修行を積んだ宗教家ではないのだ。

 野外で絵を描くのもいい。人の集まらない良い写生場所はいくらでもある。外に出るだけでも良いが、外で何か楽しめることがあれば、大いにやるべきだと思う。もちろん人のいないところを出歩くだけでもいい。外気をマスクなど外して思い切り呼吸すべきだ。大声を出すのもいいだろう。ソウシャルディスタンスには気を配ってやればいいだけのことだ。

 潮干狩りもいい。ドライブなど大いに行くべきだ。人と接触はしない形での気晴らしはしないでいると、人間は危ういことになる。出かけてレストランによるのでは確かにだめだ。お弁当を人のいないところで車を止めて食べればいい。それだけで気持ちが変わる。せめてテイクアウトである。

 コロナに感染してはならない。そう自分を戒めている。今回、小田原から帰る時に羽田空港でPCR検査をすることにした。絶対に感染していないというつもりであるが、そのつもりだけでは石垣島に帰れないという深刻な事になった。

 もう誰でもが時々PCRを義務と考えなければならないのだろう。結局自分のことは自分でやるほかない。これは政府が悪いという事もあるが、人間が生きるという事はそういう事なのだろう。政府は経済が大事なのだ。政府の役割は経済だけと考えてきたのだ。

 コロナは経済の時代が終わるという転換期である。原発事故で方向を変えられなかった日本人に第二の警告なのだろう。という事はまだ人間に方向を変えろという第三の警告がある。人間全体は愚かなもので自らは方角を変えられない。それなら自分だけでも方角を変える以外に道はない。歴史の転換期とはそういう事ではないか。

 先日テレビのドキュメンタリーで山の中かの廃村寸前の部落で暮らしている若い人たちの暮らしの記録があった。そこでは月2万円で暮らせるのだそうだ。2万円分だけはアルバイトをしているらしい。その部落でもそれくらいの仕事が生じているらしい。

 それ以上は働かないで何となく、どちらかと言えば引きこもり的に暮らしている。何かはっきりとした目的は持たないようで、主にインターネットと暮らしている。10人ぐらいの人がいて、食事なども適当に作る人が作っているようだ。よくケンカにならないものだと思う。

 その場所は昔の分校跡のようだ。その隣にはその小学校の教師だった方が一人で暮らしていて、なんとなく世話をしている。この方は家族のようなものだと言っている。しかし、ここにいる若い人たちはきっとそんなことは思っていないに違いない。

 元先生が言うには後10年すれば確実にこの村に人はいなくなる。その時にはきっとこの分校跡にいる人だけの部落になる。それでもいいではないかという。もしかしたらこの先生は、すごい聖人なのかもしれない。そういえばよい人相をしていた。

 この小学校も昔は50人以上の生徒がいた。その先生が一緒に写っている賑やかない写真がある。変わったのだ。世の中の大きな流れの中で根底では変わっている。そして、そこになんとなく避難場所として、特に目的のない若い人が10人暮らしている。

 村の人は、今は慣れたが、当初は不信感が強かったようだ。大麻でも栽培するのではないかと心配だったと話していた。見たところ、大麻を栽培するような活動的な感じはなかったが。部落の人がそういう不安を持つのも無理からぬとは思う。

 期待するわけではないが、希望がない訳でもない。都会で引きこもりしているよりはずっとましに違いない。似た者同士が、10人一緒の場所に暮らしていれば、孤独という訳でもない。何となく似ているのでつかず離れずの距離の取り方がわかり合えるようだ。

 コロナの時代の生き方として、孤独に強くなれという事が言われている。しかし孤独はいけない。孤独に耐える力を磨いたところで何にもならない。禅僧の修業も段階的に街に出る。一人で修行を続けるのは危険なことだとされている。みんなで修行することには意味がある。

 孤独に耐える力など何の意味もない。孤独に耐えられる人間になることは、人間でなくなるという事である。群れを離れた狼になるという事だ。人間が人間であるためには、他者との接触が必要である。人間は社会的動物なのだ。

 小田原に来てそのことを痛感している。石垣で4カ月一人でいたようなものだ。すると、人間ではなくなる。孤独な狼の心になる。どこか深いところに入り込んでゆく。絵を描くには確かにそれは必要なことである。絵に入っていった実感があった。しかし、小田原に来てたくさんの人とコロナを気お付けながら話をした。

 これは自分の心の活性化を起こしている。人と触れ合う事は素晴らしい。人と接すれば、不安になるし、腹も立つこともある。そして喜びも倍増する、一緒に農作業をする喜びは変えたがいものである。達成感も大きなものがある。若い人ほど働けるわけではないが、いくらかでも役に立つという実感は素晴らしい。

 そいう心への刺激がなければ人間ではない。孤独など慣れれば幾らでも耐えられるが、そんなことは人間を狼にするだけだ。ニホンオオカミは絶滅した。緩やかな人との関係を模索してゆく。人間関係に決まりはないし、どんな暮らし方かも誰にもわからない。

 コロナの襲来はそうした人間の距離感の見直しが要求されたのだろう。馴れ合いの人間関係もダメだ。もちろん上下のある組織関係もダメだ。自由で個人が尊重される、しかも孤立しない新しい人間関係を見つける必要があるという事だろう。孤立を奨励してはならない。

 それはルール化することなど出来ない、かつてない人間関係に違いない。ただ、若い人たちの方がそうした微妙さに敏感である。それだけ弱いともいえるのだが、その弱さが新しい人間関係を見つけてくれるかもしれない。次の時代は次の人たちが作る。前世代は口を出さないぐらいが役割だろう。

 

Related Images:

おすすめ記事

 - 暮らし