民主主義の終末期がきたようだ

民主主義を最も大切な政治理念と思い活動をしてきた。ところがついに民主主義は次の時代を作る希望ではなくなっている。残念だ。悔しい。何が行けなかったのだろうか。よく考える必要がある。人のことではなく、自分の問題としてである。
一番の原因は能力主義の結果ではないかと考える。能力主義の結果人のことどころではない人が、大半になってしまった。競わせることで人のことを思いやる気持ちが失われた。能力主義とはすべてがオープンで一見良いことのようにも聞こえるが、実は差別主義を生み出している。
能力という狭い尺度で人間を測り、差別しているのではないか。能力は努力だけでは解決できないことだ。精一杯頑張れば、その努力に対して十分の評価がされるべきではないのか。誰もが頑張れる社会が民主主義社会だ。
人間の能力を商品経済に役立つという側面からだけ考えるようになり、芸術、文化などは悲惨な状態に陥ってしまった。お金にならない物は無意味な物という切り捨て方が普通となり、この新自由主義経済という考え方が、民主主義を葬り去ろうとしているのだろう。この負の関係を考えてみたい。
公平とか、平等とか言う価値観が、実は差別を生む原因となっている。こうした一見正しい価値基準と考えられていた物こそが、人間を階層化し、階級を作り出し、貧富の格差を生む結果となっている。平等な競争だから、誰にでも機会が開かれている。平等な正義の結果であると言う建前である。
ところが当然の帰結として、弱者は強者に虐げられる結果となるのだ。誰もが努力をしたところで、1番には成れない。一番しか意味がないとすれば、一人だけが評価される社会が能力主義の社会なのだ。一人は万人のために、万人は一人のために。この考え方が民主主義を作り出すと考えてきた。今や無意味化したと考えるほか無い。
民主主義では能力がある人でも、能力が少ない劣る人でも、同じ人間としての人権として尊重される。男であろうが、女であろうが同じである。ところが経済競争に勝つためには能力の高い者の方が価値が高いという結果になる。株式で不労所得を得ることが奨励されるような世の中。能力が低ければ、自業自得で自助努力をもっとしなさいと言うことになる。
フランスに留学していた頃だから、いまから40年以上前にフランスの鉄道では切符の販売がコンピューター化された。ナンシーと言う地方都市にいたのだが、ナンシーの駅の職員にはコンピュターによる切符の販売が出来なかった。優秀な社会を動かしている人達とそれを実際に使う人の能力差をまざまざと感じた場面だった。
当時の日本の鉄道はまだコンピュター化されていなかった。将来日本でもこういうことになるのだろうと思ったが、今では誰もが当たり前にコンピュターを操作する社会になった。その仕組みを理解し動かしている人と、使い方だけを身に付けた人では、大きな能力差なのだろうと思う。当然操作するがわと操作されるがわに分かれる。
農の会の活動を始め、新しい自給的生活を主張したのは、民主義の実験だと思って挑戦してきた。江戸時代の伝統的田んぼという物は実に総合的なものである。村落共同体の基盤となった。水の循環を通して人間の暮らし方が、定められた。手入れをしながら、互いの配慮による能力主義でない調和社会が求められた。
年寄は年寄の居所があり、子供には子供の役割がある。もちろん女性には女性ならではの役割があった。代掻きは男がやり、田植えは女がやる。水回りは年寄で、子供たちは苗を配り、苗を投げる。お隣に若い衆がいなければ、みんなで行って世話を焼く。部落を一家族として、やれることを精一杯行う。
それしか生きる道が無かったからではあるが。何も江戸時代の封建主義の方が良かったというわけではない。次の時代の新しい生き方を田んぼの共同作業の中に見つけたかった。そうした役割もたぶん終わろうとしている。この間何人かの人にその意味が伝わったのかとは思う。
だから、絶対に畝取りをして、結果で示さなければならないと考えてきた。理想の共同作業を行えば、理想的な結果が生み出される姿。どこかのスーパーマンが一人で頑張るよりも、ひ弱な素人の集団方がすばらしい収穫を上げなければならないと考えてきた。そしてそのことは達成できたと思っている。
しかし、今や農業は要領の良い農業企業が外国人労働者を雇用して行う。使いやすい耕作地だけを大規模に獲得する。確かに国内では競争力は高まるのだろう。そして、小規模な農家は不利な耕作地で細々と経営することになる。つまりそれが能力が低いと言われることになる。今日省力のない農業と言われることになる。
そして私は石垣に越してきた。小田原で農の会が又新しい形を作るためには個人的な誰かがいるということは良くないことだと思っている。小田原では10数カ所の田んぼグループに参加した。ドコモ立ち上げから軌道に乗るまで一緒にやった。そして今も継続しているところもある。いつの間にか無くなったところもある。
出来ることならば、次の時代の若い人が新しい自分たち流の協同を考えだして貰いたいと思うばかりである。老人が口を出すことには一つも良いことがない。次の若い人達の方が、人間の質ははるかに良いと思う。団塊の世代はまさに競争主義で洗脳された人が多い。
中国の国家資本主義が世界一を目指して、急成長である。アメリカはバイデン大統領になったからと言って、そう簡単に自由主義圏の経済連携の再構築は果たせないだろう。自由主義国家が終末的様相を示し始め、もうどこの国も自分のことで精一杯になりつつある。
中国が香港の民主主義を弾圧した。民主的な形式的な選挙を行うことすら禁止しようとしている。これは中国だけのことではなく、ミャンマーは軍事政権がクーデターを起し、英国はEUを脱退し、UE内部にも独裁的政権が、ポーランドやハンガリーも登場している。
まさに民主主義は瀕死の状態である。一人一人に起きていることが、国の単位でも起きている。翻ってみれば、石垣島で自衛隊の是非を3分の1を越える署名を持って、住民投票で判断して貰いたいと住民が要求した。この住民投票をついに行われないままである。
この住民投票などやらせる必要がないと考える市議会と市長。自分たちに任せて貰わなければ島の未来も安全もないと思い込んでいる。住民の勝手な意見に従っていたら、とんでもないことになるという思いなのだろう。そうして話し合いすら実現できないまま、分断が深まる。
たぶん日本全国でこうした民主主義が失われつつあるのではないだろうか。あの森発言のとおり「わきまえろ」という空気が支配的になりつつある。民主主義などと面倒くさいことは置いておいて、俺に任せろ、わきまえろ圧力である。
あらゆる階層で起きているような気がする。何故なのだろうか。何故民主主義は成熟しないのだろう。面倒くさい奴が嫌われ排除される社会。世間という物はそもそもそういう物であったのかもしれないが。しかし、そうではない機運が一部にはあったと思う。これを育てる以外に道はない。