パリオリンピックセーヌ川開会式

   


 飛行機から見た、石垣島北部地区の牧草地。

 オリンピックの競技が行われている。オリンピックの選手の競技は素晴らしい。真剣に競技に打ち込む姿は、見入ってしまう。特に感動するのは、敗れた姿がすがすがしい選手だ。どれほど辛いかと思うが、立派な態度で勝者を認める姿はいい。学ぶところがある。

 パリオリンピック開会式は、オリンピック開会式としては、初めて競技場から街の中に出るものだったそうだ。開会式を通して見たわけでもないが、断片的に見ているだけでは、地域が広く観客も選手にもよく様子のわからない開会式だったのではないか。開会式というのは参加選手のものなのだから、余興で盛り上げる必要は無いと思う。

 セーヌ川で行われた開会式は、私としては懐かしいものだった。パリの美術学校に通った2年間は、ちょうどこのセーヌ川沿いの場所を毎日歩いて通学した。サンフロランタン通りに住んでいて、いま虎屋のあるビルんの4階である。キリスト教会で紹介して貰ったアパートであった。

 コンコルド広場からセーヌ川の河岸を遡るように歩き、ルーブル美術館のところで橋を渡ると、美術学校が目の前にある。チュルリー公園の中をルーブルに向かって歩くことになる。モネの睡蓮の絵のある、「オランジュリー美術館」の前を歩くことになる。一休みで良く入った。

 公園には沢山鋳物の椅子があるのだが、椅子で座っていると、この椅子は1フランだとか言う鞄を提げたおばさんが来る。多分一部以外はウソなのだろうと思うが、ともかく椅子には座らないようにしていた。セーヌ川沿いを歩くよりもチュルリー公園の中を歩く方が気持ちが良かった。

 徹夜で絵を描いて居ても、学校には通ったので、「オランジュリー美術館」と「ルーブル美術館」 は毎日の気分転換の散歩道だった。セーヌ川の絵を描いたということもなかった。パリ自体の風景を描きたいとも思わなかった。セーヌ川はきれいな川ではないというのが印象である。流れのない淀んだ水が濁っていた。

 泳ぐのはトライアスロンの鉄人といえども無理である。競技が出来るというのだから、昔より水はきれいになったのかも知れない。毎日学校帰りは、ルーブルの美術学校側の入り口から入り、好きな絵を見に行く。しばらく眺めていて、家に近い出口から出て帰る。今はあのような小さな入り口や出口はないようだ。

 なんともありがたいことだったのだが、どこの美術館も美術学校の学生証で無料で入ることができたのだ。ヨーロッパ絵画というものがどういうものか、この2年間に学んだと思う。美術学校の並びにあった昔し駅だった汚れた建物に、オルセー美術館ができた。ゴッホやセザンヌ、モネやピカソやマチスの良い作品がある。

 美術学校に通っていた当時はルーブルの2階の地味な部屋に、少し古めのフランスの近代絵画があったが、どうにも見劣りする部屋だった。ルーブルの名品と並べれば、個性的な絵画ではあるが、ともかく絵が暗いという印象だった。ドーミエもあった気がする。エジプトの彫像が好きでよく見に行った。

 オリンピックの開会式でちらっと出てくるセーヌ川の情景が、50年前を懐かしく思い出させてくれた。昔から橋の上でお祭りが行われるということはあったから、オリンピックの祝典として、セーヌ川を使うというのは、自然に出てきたものという気がする。イタリアの町では川の上が商店街というところもある。

 東京オリンピックは無観客の開会式だった。開会式は見たはずだが、記憶にない。日本のエンターテイメント力を表していたのだと思う。北京オリンピックの方が大規模で、中国らしい独特のもので、素晴らしいと思った。東京オリンピックは日本文化の表現という感じがなかった。

 さすがにパリオリンピックはフランス的で、間違いや失敗も多く、緩さが目立つが、選手が船でのんびりとセーヌ川を行くという姿は悪くない。国の大小や選手団の多さなど、詰まらない国家主義を消してしまっている。参加選手が一時のパリを楽しんでいるようで、その緩さが良かった。

 この緊張場面を楽しめるものにしてしまうのは、さすがフランスだと思えた。背景にはテロ対策ですごい警備が背景にあるのに、それが祭典には悪影響を与えていなかった。国威発揚というような意識がないところも、さすがに大人の国だという感じがした。較べれば、中国の事大主義が恥ずかしい。

 今のオリンピックは開会式前から、競技は始まっている。ところが競技を見ることができないのだ。母が怖くて見れないと言っていたことを思い出した。年を取ってそのことが分かる。日本選手が十分に力を出せないかもしれないというところが不安になってしまう。

 外国の選手同士の試合であれば、ゆっくり競技を見ることができるのだが、日本選手の行う、海外の強豪との試合では不安が募り見ることができない。終わって結果が分かってから見るというような、ことになる。昔は競技すべては見ずには居られなかったぐらいのオリンピック好きだったのに、不思議な心境の変化だ。

 阿部歌選手が破れて、号泣している姿はつらかった。池江璃花子選手が決勝に出れないで、無駄だったと嘆く姿も残念だった。病気に勝利したではないか。競技に負けたって無駄のはずがない。生きると言うことは、全力を出し尽くし、生きる過程に過ぎない。選手がそんな気持ちになれないことも分らないでは無いが。まだまだこれからがある。

 二人とも全力で努力したことは分かっている。それが勝利ということで報われなかったのは、耐え難いことであるのだろうが、日々の努力がこれからの生き方にどう生かされるかだろう。これだけの人だから、必ずこの敗北を生かした生き方をしてくれるはずだと思う。

 日本選手が大活躍である。体操団体男子個人総合で、金メダルを取った。それは厳しい中国との接戦だった。良くも勝ったと思う。それは日本の選手全員が最後まで力を尽くしたからだ。諦めない精神の気高さを思った。前回東京大会では、惜しくも中国に敗れてから3年の努力の深さを思う。

 また、新しいオリンピック種目ではおしなべて日本選手は頑張っている。これはどういうことなのだろう。日本の若い人達に未知の世界に興味を持つ好奇心が強いのだろうか。新しい文化に切り込んでゆく精神があるのだろうか。日本には希望があることをあらためて思った。

 ブレーキング、BMXフリースタイル、スケートボード、テレビでも見たこともない競技である。金メダルをあらそう日本選手がいるらしい。スケートボードでは男女とも優勝した日本選手がいる。見ていてもどういう趣旨の競技なのかよく分らなかったが、新しいと言うところが良いのだろう。
 「最後の晩餐」をパロディー化した問題について書こうと始めたのだが、書くこと止めにした。書いている内に、無視した方が良いような気になった。

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