好きなことを見付けることが子供の仕事

父が何度も言ったことは「好きなことを見付けることが子供の仕事だ」と言うことだった。好きなことが見つかれば、どんな努力だって出来るようになる。というのだ。だから好きなことが見つかるまでは、無理に努力をする必要は無い。努力が出来ないのは、まだ好きなことが見つかっていないからだ。こんな風に話した。
所が、好きなことが結構難しかったのだ。兄は中学生になって写真が好きになった。所が写真など無意味だと言って、決して好きなこととして認めなかった。写真など藝術では無いと決めつけていた。その違いはなんとなくは分ったが、父が言う好きなことは、なかなか難しかったのだ。もちろん遊びが好きでもそれはだめだった。
子供の頃の好きなことは、まさに遊びだった。日がな一日黄鉄鉱堀をしていれば、満足だった。クワガタムシを捕っていれば、おもしろくて仕方がなかった。どうも父が言う好きなことは、こういうことでは無いらしい。人間が生涯をかけるだけの意味のある、好きなことらしかった。
父にしてみると、それは学問をすることだった。民俗学研究の生涯を送ることだった。多分父の考えは柳田国男氏の影響下にあった。所が、中国戦線の前線で7年間も無駄にした。そして、戦後東京に戻ってから家族の生活を支えるために、商売に必死だった。柳田先生には民族学を続けられないと伝えにいったそうだ。悲しそうに、ただそうかと言われたと言っていた。
その悔しい思いが、いつもあって生きていたために、好きな民俗学を出来ない日々が、悔しかったのだろう。子供には学問が好きになって貰いたいと言うことが背景にあった。民俗学ほどおもしろいものはなかったから、誰だって学問が好きなはずだと思っていたのだろう。
叔父は父に育てられたのだが、育種学の学者になった。兄は和牛の研究者の道に進んだ。大学に残ることは出来ずに、岩手県の役人になって、牛に関わる仕事をした。父の兄は彫刻家であった。父はその家族の面倒も見ていた。そういうことから、絵を描くことが好きと言うことにした気がする。
ところが、絵を描くことは父は反対した。好きなことが絵である以上仕方がなかった。ただ、芸大に行くことはどうしても認めなかった。ちゃんとした国立大学に行き学問をして、その上でまだ絵が描きたいというのであれば良い。藝術としての絵画はまず人間の成長だ。そのためには先ずは普通の大学生になれというのだ。芸大よりも東大だというのだ。その上でならば、絵を描くことを認めてくれた。
考えてみると、今の私の絵に対する考えはほとんど父に教えられたことのようだ。それくらい私の考えは、父の影響で、成長したのだろう。だから美術大学で絵を描くつもりは無く、金沢大学では日本の寺子屋教育を研究するつもりだった。生まれた向昌院は寺子屋を開講していた寺だった。
江戸時代の教育に興味があった。江戸時代社会が安定すると、寺子屋教育が隆盛を極める。本屋は軒並み需要の多い教科書、啓蒙書を製作して販売した。 行商本屋や貸本屋が派生した。江戸時代中期の成年男子の識字率70~80%ある。この時代こんな国は他には無い。識字率が世界一といわれる。その背景に寺子屋があった。
寺子屋の研究をしてみたいというのが、大学に行く目的だった。所が学問をする為には2カ国語を学ばなければならない。そもそも英語が嫌いだったぐらいだから、外国語を学ばなければ学者になれないのであれば、学問などやりたくないというのが実際の所だった。
それで寺子屋に関しては自分なりに学ぶことにして、絵を描く方に流れていった。今思えば、あの当たりが分かれ目だった。父は大学に行くまでは生活の面倒を見た。後は自分でやれと言うことだった。自分でやる以上後のことは自由に生きてくれと言うことだった。
そして今は、朝起きたら今日一日が楽しくなるような暮らしをしている。こういう状態になれたことは、有難いことだと思う。実際大したことをしているわけでもない。生きてきたほとんどが失敗ばかりである。本来後悔しても良いはずだが、何の後悔もない。
ダメだったけどそれでいいと思える毎日である。生きると言うことには、成功も失敗も無いと感じている。好きなことをやってきたので、後悔がない。絵を描いていて、絵描きには成れなかったが、それもまた良いと思っている。むしろ農業をしながらの、暮らしで良かったと思える。何も成し遂げたわけでは無いが、これで満足なのだ。
絵を描くという藝術の世界は、やりがいがある。費やす価値があると思えたのだ。それはやってみて、人生を費やしてしまった今も、そう思える。別段自分の藝術世界が世間に認められたと言うことではないが、そうしたことと関係が無く、藝術の世界の崇高さに触れられたことで満足できる。
崇高な世界がある事を知り、それに向かっていきている日々という、方角が良い。これがベーゴマが好きだったから、ベーゴマを一生やったとしても、それはさすがにつまらないことになったに違いない。鳥を飼うのも子供の頃から好きで、飼い続けた。世界一の鶏を作る夢だった笹鶏も、残念なことに失敗した。
それでも、生きる事の楽観である。何とかなるから大丈夫という心境である。先の心配はない。今やることをどこまでやれるかだ。今現在最後の冒険である、「のぼたん農園」の完成に向けて、日々努力している。これがおもしろくて仕方がない。
毎日あれをやろうかこれをやろうかである。昨日は森林組合で、やらぶと栴檀の苗を100本購入した。早速植えるために、溜め池上部の整備をした。まだ終わっていないが、早く苗がくるまでに苗を植える準備を進めたい。草刈りをして、植え穴を掘り、堆肥を入れておく。
今苗を植えれば、50年後にはやらぶと、センダンの林が広がっているはずだ。それを思うだけで、わくわくしてくる。これで、のぼたん農園の大枠はできてきたと言うことになる。後は根気よく整備して行くことになる。それを想像するだけで、楽しくて仕方がない。
色々好きなことをやってきたのだが、その中で、今は次の世の中に役立つことは、自給農の技術を後世に残すことだと思っている。その目的があるから、今やっているのぼたん農園の作業は、すごくやりたい意欲が湧いてくる。身体はだんだん長くは働けなくなっているのだが、コツコツ続けている。
好きなことが、世の中の役に立ちそうだと言うことが嬉しい。のぼたん農園の作業をすることは、何か有意義なことをやっていて、自分だけのためではないという気持ちになれるのだ。こんなに嬉しいことは無い。と言っても、のぼたん農園の目的が理解されるのは、50年後だろう。
今年も学校田をやる。ここで稲を作った小学生達が私ぐらいになった頃に、のぼたん農園の意味を分ってくれるかも知れない。ここに在る自給農業の形が、その時代の目標になっているかも知れない。そのくらいの気持ちで日々取り組んでいる。好きなことだから、やりきりたい。