継続するのが好きだ。

11番畑 ここは堀口さんの畑である。堀口さんはとても農業に詳しい方だ。やり方を見て学びたいと思っている。
継続の方法を知っているので、一応何でも継続できる方だと思う。頑張って継続すること自体が好きなのだと思う。実現は出来ないことばかりだが、実現に向かって続けているという気持ちでいたい。死ぬその日まで目標に向かっていたいものだと思う。
どれほど才能のある人でも継続しなければ何事もなすことは出来ない。逆に能力などなくとも、人の何倍も努力して継続すれば、自分の範囲は実現できると考えてている。というかそう期待している。継続力こそその人間の努力でなんとかなる能力だ。
このブログも毎日書いている。動禅体操も長く続けている。のぼたん農園も命ある限り完成を目指すつもりだ。体重は増減なしを目標にして、ほぼ一定で60年間である。なぜ継続を続けるのかを書いておきたい。精神力が強いとか、根気が良いとかそういうことでは全くない。やると決めたことを、やり続ける手法がある。
動機付けである。長生きしたいと言うことが一番である。誰でもそうだろうが、私は死ぬのがいやなのだ。こんなに面白く毎日暮らしているのだから、なんとか一日でも長く、この暮らしを続けたい。死ぬのが嫌だ。どこかむなしい。となれば、続かない健康体操がなんとか、毎日続けられる。
今日ぐらい止めてもいいかと思うこともしょっちゅうである。普通の人間はそういうものだと思う。何十年続けていてもおっくうな気持ちはわいてくる。今日止めたら、必ず病気になって後悔すると思えば、なんとか始められる。それでも腰が重い。
まず足踏みだけでもしてみることにしている。動き出してみると、意外にそれまでのおっくうな気持ちがいくらか薄れる。まだ気持ちの方は体操までは進めない。仕方がないので、最初の一つだけやればまあいいか。と思い始めることにする。所が初めて見るとだんだん気持ちが変化してくるものだ。
止めたら死ぬぞと思えば止めるわけにはいかない。このぐらいのおっくうさを我慢しておけば死なないなら、やった方がいいと思えるわけだ。結局の所やりたいことを長くやるための動禅体操なのだ。腰が痛くなれば、田んぼが出来なくなる。これは耐えがたい。
これは体操だけのことではない。継続するためには、入り口を軽くすることだ。軽く初めてそれで終わってもいいと思うことだ。いつもやりたいことを思い浮かべて、始める。始めれば後はなんとかなる。大抵のことは一番気が重いのは始めるときの腰の重さである。
立ち上がる。足踏みをする。そのうちになんとか始められる。最初のおっくうさを押しのける方法さえ身につければ、なんとか継続が出来る。そこで自分の考えた動禅体操がある。まず最初の体操はスワイショウから変化した自己流、雨戸開け体操である。軽い体操だ。
体操は筋力を使うようなものは避けることにしている。そんな大変なことをやれば、続かない。効果は薄くとも継続を重視した楽な体操である。実は体操は楽に動けるもので十分なものなのだ。ラジオ体操でも本気で、やれば第一体操だけでヘトヘトである。こんなつらい体操は長くは続かない。身体にも本当は悪いのだ。体を合理的に動かすことが体の維持点検には重要なことだ。
まだまだ継続のための方法がある。終わったときの達成感をおろそかにしない。自分はなんとか今日も継続したぞ、という気持ちを確認して、達成感の喜びを味わう。なんとか一日継続したことを誇りに思うことである。それが最後の背伸び禅である。そして合掌して礼拝で終わる。何者かに頭を下げて終わる。
体操の継続法を書いたが、こうしてブログに書くことも継続法の一つである。ブログに体重を毎日記録するという人がいるという。すると太りすぎないというのだ。その通りだと思う。こうして動禅体操のことを書けば、さすがに今朝もやらないわけにはいかない。
体重の維持は重要だと思う。身体の変調は体重の変化に表れる。日々必ず風呂を出たときに計ることにしている。そして、50キロを超えたとにはお酒を飲まない。お酒が飲みたければ、食事に気をつけろと言うことである。ケーキやまんじゅうなど食べれば、200g増加する。
ケーキと酒とどっちがいいか考えろと言うことになる。当然お酒である。体重が長年54キロに維持できているのは酒のおかげである。お酒が飲みたいから夜はご飯は食べない。ご飯まで食べれば、翌日はお酒が飲めないことになる。つまりお酒という餌につられての、一日2食の継続法になっている。
そして肝心な問題はやりたいことがあるから、の継続法である。田んぼがやりたい。のぼたん農園がやりたい。絵も描きたい。実際は継続はつらいこともないわけではない。人の助けを借りると言うことになる。一人で継続など出来るわけがない。
みんなで励まし合い継続をしてゆく。互いに互いに前向きのエネルギーを高めあっててゆく。つらい、やらなければならないのにやれないと言うことがある。そうしたときに仲間が来て始めてくれると、自分もなんとかヤル気になる。
一人はみんなのために、みんなは一人のために。気持ちの持ちようである。人を責めない。仲間への感謝を忘れない。みんなのためにいくらかでも出来ることを喜びにしてゆく。そして、だめでもいいじゃんと口に出しながら、決して諦めない。未来を信じること。
最も大切なことは自分というものの実現である。自分というものへの到達の継続である。覚醒して自己認識を続けることだとおもう。私の場合であれば、絵を描くことなのだと思う。無意識下で絵を描く。身体で絵を描くと言えばいいかもしれない。
なぜ絵を描き続けられるかと言えば、好きだからである。好きであると言うことが、一番の継続法。絵は何時間でも描いていたい。どれだけ描いても飽きないし、次々と新しい面白さにぶち当たる。未だかつてない自分というものに出会うことになる。この面白さは究極なものだと思う。
絵を描くことを自分の修行とした。座禅の継続が出来ない以上、絵を描くことを修行と考え、そういう絵の描き方をすれば、日々の修行の継続が出来る。まぁ、横着な考えなのだが。出来ることで修行を継続するほかない。乞食禅であるとしても、これが私流なのではないかと考えた。
道元禅師から見れば、どうしようもないやつに違いないのだろうが、一度の人生である。自分流にやれることをやる以外に道はない。ダメなやつの居直りである。それが自分流ならば仕方がないと、自分を甘やかしているのかもしれないが、それで継続できている。
しかし、座禅と違い、眼前に描いた絵という現物がある。これはごまかしがない。道元禅師も只管打坐ではなく、正法眼蔵を書いたではないか。絵がダメと言うことは修行が足りないと言うことだ。もっと絵を描けと言うことだ。絵は目印になっている。後25年描き続けて、自分の絵に至ることが継続の目標である。