天皇制の問題

   

修学院離宮の棚田。
 女性天皇の問題が議論されている。しかし夫婦別姓問題と同列に先送りされている。自民党右派の存在感である。私は女性天皇反対である。この点では恥ずかしながら、右寄りの方に評価されてしまったことがあるくらいだ。それでも同調者がいるのは悪くない。
 しかし、私の女性天皇反対論は、女性天皇を禁止しておけば、遠からず天皇の後継者がいなくなり、天皇制が終わるという希望に基づいている。天皇制はそろそろ形を変えるときが来ている。明治維新で天皇の立場が、帝国主義の君主になぞらえて変えられたのだ。
 何右寄りの方は後継者がいなくなることを想像できないので、良い方向になりそうだ。天皇制を継続したいなら、女性天皇を認める他ない。今のところ天皇の後継可能な人は2名である。今度筑波大学に行かれた方が、結婚されなければ天皇家はそこで終わりになる。それぐらいがちょうど良いのではないかと思っている。
 皇族としてではなく、天皇家としては今後とも続けて行けば良いだろう。笹村家と別段変わりなくである。公的な立場は一切ない形が望ましい。それが人権という意味でも当然のことではないかと思う。国家主義と天皇制が結びついていることは、良くないと考える。
 様々な天皇に対する考え方があるのだろうが、一百姓としては「稲作の元締め」という風に考えている。天皇家は早くから大陸の水土工事の知識を取り入れて、水田の水利環境を作っていった。瑞穂の国を推進した中心の家だった。と歴史を判断している。
 いち早く朝鮮半島からの渡来人との交流をした、先進的一族だったのだろう。陽上るところの天子と言っても、どう考えても辺境の弱小一族にすぎず、先進技術大国から、早く先端の稲作技術を導入する一族が日本を支配できるという状況だったのだろう。
 縄文後期から徐々に稲作が日本に入り南東北まで広がる。初期の時代の稲作は、自然環境のままで田んぼが作れる場所を見つけて作ったものであろう。稲作のなかった北東北地方や北海道には縄文の暮らしが、かなり後の時代まで残っていた。
 水利を伴う、水田稲作が導入されることで、日本人の暮らしが激変して行く、人口爆発も起こる。食糧の蓄積が村社会を作り出す。国家の萌芽ようなものが各地域に出現したのだろう。稲作革命が起きた時代である。狩猟採取と、わずかな作物栽培という暮らしが激変して行く。
 その有力な大和地域の統率者が、天皇家だった。稲作が大好きな私としては、その意味で、親近感というか、稲作技術を日本列島全体に広めたという意味で興味の対象である。先進技術を持っていたために、他の地域に影響を強め、徐々に日本という国の成り立ちに関わったのだろう。
 その天皇家の成り立ちから思うと、国家主義と天皇とを結びつけた、明治政府の発想はあまりに稚拙であったと思う。明治政府は様々な意味で幼稚な文化の劣る政府だった。だから、武力的権威などなかった天皇家を無理矢理、帝国主義国家の中心に祭り上げ、権力の象徴として位置づけた。
 この無理から、特殊な天皇崇拝教育が行われ、いつの間にか日本人は天皇を神として位置づけるような愚かなことになってしまった。神官としての天皇家はあったのだが、それはあくまで神社の禰宜としての立ち位置であり、天皇そのものを神としたことは、明治時代までなかったことだ。
 天皇家は稲作文化を持ってその尊厳を維持する。農を本とする国家の、農業を取り仕切る権威だった。それがしだいに稲作と日本の神道が、重なり合うようになっていったと考えられる。しかし、神道自体は縄文期の古い原始宗教に結びついた、氏神信仰的なものである。いわゆる宗派宗教とは異なるものだ。
 明治政府を作り上げようとした人たちは、軍事的意味でも最高権力者として、天皇を祭り上げた。江戸時代までの天皇家は武力とは縁の薄い、文化を持って国を統率するという特異な影響力を持った人だった。その文化の根源は、稲作が生み出したと言うところに特徴がある。
 その根底の稲作文化をないがしろにして、天皇を権力に祭り上げた淺知恵が、明治日本帝国主義である。歪んだ形で天皇を自分たちの、権威付けとして利用しようとした地方出身の薩長の明治政府。その間違った帝国主義の方角が、侵略戦争を行い、敗戦に至った理由だ。ここは忘れてはならない。
 江戸時代の天皇家の扱いぐらいがちょうど良かったのではないだろうか。和歌をたしなみ、芸術や文化の統率者としての天皇家である。桂離宮や修学院離宮にその意味が込められている。この絶妙な権力との距離感のある、天皇の位置づけをなしたのが、江戸幕府の徳川家康である。
 後水尾天皇が集学院離宮や桂離宮を造営したことは、天皇家本来の文化的な位置づけを意識してのことだと思う。修学院離宮は日本の模式図である。と考えている。上部に溜め池があり、その水で人間が暮らしている。そして流れが引かれ、下流に棚田が存在する。まさに日本人を修学する場所なのだ。
 それが天皇の考えた上からの国家観である。とすれば、下からの国家観が「のぼたん農園」である。人間一人が生きると言うことを見つめ直す場である。人間が生きる最小限の場を提起できる場所である。自給が出来ると言うことを実現することで人間になるという場だ。
 湧水があり、その水が田んぼに回って行く。田んぼが2畝。畑が1畝。これで人間は生きて行ける。食料自給のためには毎日1時間の時間があれば良い。この時間を修行の時間だと考えればちょうど一柱である。人間は毎日1時間ぐらいは自分を見つめる時間が必要と言うことなのだろう。
 自給農業の探求こそ、科学的自分探しである。自給を自分の身体で実現できれば、人間が確立できる。これは「千日回峰行」 のようなものだ。自給農法確立には千日位はかかる。科学的思考が出来なければ、達成が出来ない。正しい方角で、正しい科学的思考を極めること。
 道元禅師の只管打坐は正しい教えだと思う。しかし、あまりに正しすぎるために、脇目ばかりの私には継続できなかった。インチキでも生きなければならないので、自給農業を自分の修行にした。そして、杉林だった場所で千日自給農を行い、体力だけで食糧自給を達成した。千日自給農は楽しい自己探求なのだ。
 後水尾天皇が集学院離宮を造営したことは楽しいことだっただろう。自分の興味に従い、徹底的に追求したのだと思う。まさに修学院離宮には水利の思想と技術が詰まっている。天皇家は京都に戻られて、修学院離宮で暮らされることにしたら、一番幸せなのではないだろうか。
 天皇家を明治政府の想定した日本の象徴にいつまでもしておくことは、日本人にとって良くないことだと思う。一人の人間として暮らして貰う方が良いではないか。「てんのうさん」位の敬意の表し方で良いのだと思う。天皇家の稲作文化は百姓の司と言うことだ。大きな日本教という氏神様の禰宜なのだ。その立ち位置に戻られることが、一番収まりが良いのだと思う。

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