豊に幸せに暮らすための方法論

   

 日本は徐々に先進国から脱落し始めて、普通の国になった。これは自民党が軍備があるのが普通の国だと主張したとおりで、笑えないお笑いである。政府お望み通りの普通の国になったのだ。色々の意味で当然のことだ。それでもまだ日本は気分では背伸びをしている国だろう。

  幸せの国とは、当然のことだが、受け止め方の問題である。日本は幸せ感が低いという国だそうだ。私自身はやりたいことをやらせてもらえて、充分幸せである。世間一般的に言えば、経済先進国から後退してゆく経過だから、前途多難の渇望感の強い国にならざるえないのだろう。

  自然養鶏の本を書いたときに、アマゾンの感想コメントに、また貧乏ばなしだとあったことを覚えている。私が豊かな暮らしだと実感していることは、実は世間的には貧しい暮らしだと、考える人の方が多いのだろう。それはすべてをお金で換算して考えるからだと思う。

 自然に溶け込んでの暮らしは、金銭に換算できない豊かさに満ちている。確かに人間が生きてゆく現実はお金で動いている。しかし、赤とんぼが飛んでいたり、アカショウビンの鳴き声はお金ではない。日々の暮らしに充足して感謝できると言うことが豊かさなのではないか。

 今田んぼを作っている。それを遊びだと皆さんが言う。余りに楽しそうだからだろう。確かにこんなに楽しい作業はない。命がけだと思っているから楽しいのだ。自給のための田んぼ作りはこの田んぼのお米しか食べないと思えば、すべての農家さんより、必死なことになる。心境としては自分のすべてをかけたものであり、遊びどころではなくなるのだ。だからこそ楽しい。

 20年間も所得が増えない。国の借金は世界一。努力してすこしづつ良くなる実感があるのが、幸せの基本だろう。努力しても暮らしが変わらず、苦しいと感ずるのであればそれは不幸な国だと感じるのが普通のことだ。絵を描いていれば、少し良くなってきたというのが嬉しいのだ。
 
 ところが所得が現状維持であれば、停滞しているわけだから、将来良くなって行くという希望が生まれない。お金のことから考えればそういうことにならざるえない。金権主義を蔓延させて、あのお金がすべてのホリエモンを衆議院の候補者にしたのが、自民党である。幸い落選したが何とも気持ちが悪かった。これも何だか笑えないお笑いであった。

 20年も経済が停滞しているのに、アベノミクスは成功したというのが政府の言い草である。だとすると、目的のとおり格差を広げ貧困層を従える富裕層を作り出し、階級の固定化が政府の目標だったと言うことなのだろう。

 選挙ではその方角が延々と支持されている。下層国民が上層国民を支持してお願いをしているように見える。不幸なところにはまり込んだとしか見えないのだが。洗脳され、誘導されて、野党を選べばもっと悪くなると思い込まされている。としかみえないのだが。

 資本主義の矛盾が徐々に社会を覆い始めているのだろう。特に自由主義経済は金儲けのために能力競走をして、より経済を発展させるという図式が崩れ始めたと言うことになる。ニンジン馬がとんでもない暴走している。能力主義による、自由競争の理念が壊れ始めている。

 金儲けがしたいから、金儲けの能力を高めた結果。優秀と言われた勝ち抜いた財務省官僚が、コロナ補助金の不正受給に奔走するような、見にくい官僚が登場するようになったのだ。自分のための金儲けばかり考えているようでは、人様のために働くような倫理が生まれないのだ。だからお金が社会に還元されない。

 この閉塞を始めた自由競争の資本主義に対して挑み、徐々に成功をしそうになってきたのが、国家資本主義である。中国の社会主義を標榜しながらの、覇権主義的な急速な経済成長である。競争の原理からして、アメリカ式の資本主義よりも優秀ということが結果として見え始めた。

 この事実にあせりはじめた白人先進諸国は人権問題を持ち出して、経済制裁を加えている。差別の国アメリカが人権を持ち出しても、どうも説得力が無い。コロナパンディミックでは日本人までアメリカでは排斥された。アメリカはメキシコ国境に塀を作らなければならない差別の国である。米軍の沖縄差別がひどいものであることが、オミクロン株の沖縄の広がりでよく分かる。

 中国がまともな国だというわけではない。人権問題があるのは確かである。ウイグルに関しては情報が少ないが、間違いなくひどい弾圧が起きているとみていいのだろう。イスラム勢力に対する防御策でもある。ロシアのアフガン侵攻と同じことだ。香港に対する政治的圧力は中国が独裁国家である事を明確にした。

 しかし、人権問題を持ってオリンピックを批判するというのも、とばっちりのようなものだ。戦争をしていても、スポーツ交流だけは行おうというのが、平和の祭典ではなかったのか。経済のために何でも持ち出すのは、経済で負けそうな焦りとしか見えない。

 こうして資本主義が末期的な状態の中で、幸せに生きるのはどうすれば良いのかと言うことを考えなくてはならない。政府が幸せにしてくれることは、はっきりと無い。政府は国民を富を生み出す労働力としてのみ見ている。これでは幸せを感じられないわけだ。

 幸せを考える上でも、江戸時代から学ぶ必要がある。武士階級の江戸時代ではなく庶民の江戸時代である。江戸時代は経済停滞の鎖国の時代である。人口も停滞した。だからこそ、文化が成熟した時代でもあった。農業技術も江戸時代に世界最高水準のものを作り出している。

 稲作技術は洗練され、信仰や祭事のすべてをつかさどった。集落全体で取り組む水管理から、共同する労働形態が生まれ、弱者救済の仕組みを生み出している。稲作という生産技術が集落で暮らすものの幸せ感を生み出していた。

 園芸文化では、様々で独特の日本的世界を展開している。盆栽、牡丹、菖蒲、朝顔、春蘭、寒蘭。金魚や鈴虫。日本鶏。閉じられて、変化のない、収入の少ない中で、庶民は暮らしを楽しむ方法を編み出している。暮らしの中に幸せな世界を生み出した。

 農村では里地里山という、手入れを重ねて循環してゆく美しい村を作り出してゆく。美しい場所で日々を生きる喜びを感じていた。先祖から預かった農地を育み、子孫に残してゆく暮らし。美しい暮らしを壊さないように、大きく改変しない暮らし。その暮らしの充実の中に幸せを見付けてゆく。

 江戸時代の封建主義と身分制度というひどい問題を別にして、幸せに生ききる為の工夫が至る所にある。現代社会に於いても、社会と一定距離を置き、共感できる仲間と幸せな暮らし方を模索することは可能だ。現代に於いては社会の中に巻き込まれないことが幸せを感じる道だ。

 絵を描いていれば、絵が売れて社会的評価される人だけが幸せというのは良くないことだ。絵を描くと言う行為そのものを味わい、その人なりに突き詰めることができると言うことが幸せなのではないだろうか。人間の生きがいというものを大切にすると言うことでは無いか。

 人と競べないと言うことが幸せの根源にある。能力主義を乗り越えることだ。その人がその人として、やり尽くせる社会こそ幸せな社会だ。人間を信じなければならない。人間はニンジンを吊されなくとも、真剣に生きる資質がある。

 多くの人が追い詰められた時代の中では、良い仲間と出会うことが大切である。一人で生きることの可能な人は、みんなで生きることを模索すべきだ。人間は自分のためだけより、人のための方が力が出るものだ。力を出し尽くすためには、仲間がいなければだめだ。

 

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