絵を描き始めると意識が変わる

   



 動禅体操の中に爪先立ちをする動作がある。目を閉じて爪先立ちをして30を数える。これを3回繰り返す。当然ふらふらする。もちろんふらふらしないように爪先立ちをするのが形なのだが、ふらふらする身体をどのように静かに収めるかの練習だと思ってやっている。

 3半規管の訓練のようなものなのだろう。爪先立ちを限界まで高くすれば、誰でもふらつく。わざわざふらつくようにして、ふらつかないように訓練をしてゆく。毎日やっているとふらつく時とふらつかない時がある。だんだん身体が収まり、ふらつきが減ってくる。

 最初の頃は目を閉じて20数えて3回だったのだが、難易度を上げて30にした。これで安定したら、40にしたいと持っている。それでも安定してしまえば、50にしたいと思っている。大切なことはふらつくことなのだと思いついたのだ。おかしいことだが、上手くゆかないと言うことの方が意味がある。静かに立つという目標に向けて、揺らぎを堪えて克服すると言うことに意味ががある。

 その爪先立ちの時の心境は、千尋の谷の鋭い岩の上で爪先立ちをしている気持ちである。眼の中に雲海の山並みが広がる。これはかなり怖い。本当の岩壁の上なら出来ないだろう。出来るのは仙人だけである。怖い中でふらふらする。それでも安定して爪先立ちできるように努力をする。出来ないことを出来るように動禅を繰り返すことに意味があると思っている。

 ギリギリの所での心境を、静かで真剣なものであるようにみがきたいからだ。しかも、目を閉じただけで絶体絶命の状況には入れるかどうかである。それが出来るようになれば、何をするにも本当の力が発揮できる。私の場合あくまで乞食禅だから、結果を求める。10で来たら、11を求める。蹴り上げ体操も、20回3回から始めて、50回3回を行うようになった。

 今のところわずかずつ向上している。どこかで身体は衰えるのは当然だから、少しサボれば頭打ちになり、衰退してくるのは止むえない。今は何とか向上しているのだから、一つ一つを頑張るのが動禅だと思っている。まあ、いかにも俗物的発想だが、それでいいと居直ってから安心になった。無念無想の座禅が出来ないものは、乞食禅がお似合いというわけだ。そう思うようにしている。

 爪先立ちのふらつきの事を書いたのは絵を描く時の心境のことを考えたいからだ。絵を描くと言うことは、出来ないことを何とかしようという心境の中にいつもいる。描いていてこれでいいなどと思うことはない。何故出来ないのだろう。これでは違うと感じるばかりである。これは違うなと言うことを感じて、次々に思いつきを繰り出して、試行錯誤している。

 絵を描き出すと、一気に頭の動きがまるで違う世界に入り込む。多分の脳の中の思考をつかさどる部署とは違う部署が活動してくるのだろう。書を書くときに笹村の笹の字さえ文字の形が分からなくなる事がある。だから鉛筆で書いておいてみてかく。文字を読んだり書いたりする脳の働きの部分では、書を書いていないからだろう。

 絵もそうなのだとおもう。絵を描くことになると、意味を理解する脳は働かなくなる。これは木だとか、海だとかはそうであることは分かってはいるが、特別には意味を考えていない。この脳が閉じる切り替えみたいなものが、長く絵を描いてきた結果、形成されたと言うことなのだろう。
 
 それが良い絵の描き方ということではない。自分の場合はそうだと確認できると言うだけのことだ。何故なのだろうと思うわけだ。色に反応して全体の調和をはかっている。筆触に反応して新たな筆触を加えて行く。そしてこれでは違うと言うことを繰り返している。

 明確にどこに向かっているのかは見えていないのだが、これではないと言うことだけは分かる。先に進むために、一度出来た調和を崩してみると言うことも良く行っている。違う筆触を入れると言うことも良く行っている。おかしい色を入れてみると言うこともやる。

 現状を突破するために、さらに悪くすると言うような作業になる。悪くしたいわけではないが、そこそこ良いと言うことへのこだわりを捨てるためである。偶然出来たほどほどの良さに引きずられる事が一番おかしな所に行ってしまう原因である。

 自分が何をしたいのか。自分の中のものは何なのか。いつもそこに向かって、やるべき事を模索している。ほどほどの良さとか、いわゆる絵画的であると言うようなことは、かえって自分に向かう障害になる。この辺の先に何かがあると思っている。

 おかしな所とは自分の世界では無いところである。思いつくことは何でも実行する。直前までこれでいいのかなと思っていたことでも、こうしたらどうなるのだろうと頭をよぎるものがあれば、ともかくやってみる。やらないで考えていると言うことは無い。

 やってみてやっぱり違うと言うことばかりなのだが、それでもやらないでの中途半端よりはだめが分かっただけ良いと思っている。このだめを繰り返せば、水彩らしい良さみたいな曖昧なものは、とことんなくなる。だめな事に向き合うのが、絵を描くことではないかと思えてきた。

 それは自分がだめだからなのだろう。自分のだめさは良くわかる。どうしよ
うもない奴である。絵だけ良いというわけにはいかない。どうしようもない奴でもどうしようもない人間を描けば良いのが、絵だ。別段装う必要も無いし、そんなことをすれば、人が良いと言っている絵のまねの絵になる。

 完成を目指して描くと言うより、思いつくすべてをやってみる。だからどんどん違うところに進むのだが、試行錯誤の末に、絵が見え始めることもある。絵になりかかる。この場合の絵というのはいつも分からないのだが、自分にしっくりくるというような程度のことかもしれない。

 絵が立ちあがり、画面の世界が緊張をしてくる。それはいつも思わぬ結果だ。この場所をこう塗ろうと始めると、いつの間にかあれこれ違うことをしている。このあれこれの結果たまたま、ぐっと画面が変わることがある。だから、自分の意図で絵が立ち上がったと言うより、偶発的なことで絵になったという感じだ。

 そういうことばかりなので、こうすれば絵になるというようなことを考えたところでまるで無駄なのだ。むしろ、どこにでも自由に動き回りながら、やれることはすべてやってみるという方が実際に近い。偶然の行為の繰返しで自分の絵に近づいてゆく。

 絵が偶然のたまものなのだから、描いているものをこれを絵だとは言えない。たまたま拾い集めているような感じの方が近い。拾い集めたものの組み合わせが、なんとなくしっくりになったというような感じか。私絵画だからそうなのか、私の書き方が特殊なのかは分からない。

 ただこんな描き方で良いと考えていることは確かだ。他にやりようもないし、今更人の眼の基準で絵を描く気持ちはない。どこまで行けるのかという気持ちだ。比べて見ると、前よりも今の方がしっくりくる。この調子で毎日わずかでも進めばとおもう。いつかは自分の思い描く自分らしい楽観の絵に到達できる可能性はある。やれるだけやってみよう。
 

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