安倍総理大臣の土下座像

   



 アベ総理大臣の土下座像は衝撃的な物であった。未だどう考えて良いのか判断がつかないところがある。制作した人への怒りが判断を狂わせている。アベ氏は大嫌いであるが、それとは別な話で日本人としてさすがに耐えがたい物である。それでもあれは作品という要素はあるのだろうか考えなければならない。

 自分の植物園にアベ土下座像を設置する神経はすごい。植物園にお客さんが増えると感じる要素が韓国にはあると考えていいのだろうか。その植物園主はそもそも学生時代は左翼運動をしていたという。いくらかは知性のある人間と考えてもいいのだろう。

 たしかに政治的な表現として、これほど衝撃的な表現のものは少ない。従軍慰安婦少女像の象徴性に比べて、この具体性には表現としての衝撃が高まっている。しかし、これを作品と呼んでいいものかどうか疑問がある。芸術作品と言うより、悪意ののろい像のような物かもしれない。

 テレビ映像で見る限りアベ土下座像は作品とは言えない張りぼてである。私には彫刻には見えなかった。さすがに狭い悪意に満ちた物では作品にはならないということか。張りぼてが土下座して謝罪したところで、内容が伴わない。張りぼて像は造る側の真剣さも無いと言うことが分かる。作品の本当の強さはその表現に対する世界観である。間違った狭い考えでは作品を支える世界観にはなり得ない。

 アベ土下座像は狭い一面的な怒りだけで作られたものだろう。人間の謝罪と言うことがどういうことであるかまで、思想が伴っていない。大げさなようだが、もしここでの怒りが、真実のものであれば謝罪する人間像として、後世に残り評価される作品になることだろう。そして見る人をも変える力を持つ。

 この像が生み出した結果は日韓の憎しみの増幅である。悪い物は悪い結果しか残さない。

 金次郎像にも似たような意味がある。報徳思想の象徴と言うことは分かるが、この意味の曖昧な像が戦争教育にも利用された歴史がある。その利用された事実を認め、報徳教団は組織として謝罪をしたことが無いのだろう。報徳会はそこが曖昧である。曖昧であるままに金次郎像を未だ立て続けている。立派な人も居るだけに残念なことだ。

 金沢にいた頃金次郎像にペンキをかけたと言うことで、捕まった人が居た。裁判を学生運動のある組織が支援していた。保釈されている間にその人が窃盗の罪で再逮捕された。そしてどこかに行方不明になった。警察の暗い部分を感じたが、どこに真実があったのかはわからない。

 その人は戦時中の記憶が金次郎像の前に来たときに、突然思い出されたのだそうだ。小学校の軍国教育である。こいつが悪かったせいで、自分の人生は狂ったとおもった。そこで仕事帰りで持っていたペンキをぶちまけたらしい。それは嘘ではないと思う。金次郎像が妙なトラウマになることもある。

 子供の私は風呂焚き用の薪を集めることが役割だった。薪を背負った金次郎ではないが、いつも薪を探していた。薪集めは一番好きな仕事だったかもしれない。役立つと言うことは嬉しいことだった。風呂を焚いてみんなに一風呂浴びてもらえる。

 まさかそんな面白いことをやるときに、勉強なぞ思い出すことはない。薪を取るなら薪だけで良い。勉強をするなら勉強だけをすべきだ。子供の私にもそのくらいのことは分かっていた。好きなことに一意専心である。だから金次郎像は嫌いだ。二宮尊徳という人まで誤解する原因になった。地域農業の先達としての尊徳の重要性が隠れてしまった。

 その意味でいえば、アベ土下座像は作った人の意図は成功したのだと思う。韓国の国情が生み出した像である。日本を憎み、アベ氏を恨み、張りぼて像を造った。金次郎像が彫刻として少しも面白くないのは、出世礼賛像というインチキがあるので、張りぼてにしか成らなかったのだ。張りぼて金次郎像は、二宮尊徳という人間までおかしくした。小田原の人にはこのことに気付かない人が多かった。

 しかし、アベ氏を諸悪の根源認定したとしても、あのアベ氏の土下座像には受け入れがたい物がある。人間の尊厳である自由は、尊厳のある行為を通して守らなければ守ることは出来ない。謝罪というテーマで作品を作り、世界にアピールできるところまで行うべきだ。

 現代韓国の芸術文化の認識の低さを世界に指している像になる。韓国人はこの程度作品レベルの物を守ろうとしているのかと、見る人は見ていると思う。同じ朝鮮の人が作った、百済観音や興福寺の弥勒菩薩像を思い出すべきだ。日本人に文化という物を教えてくれたのではなかったのか。

 思想の深さが違うのだと思う。そうした謝罪しなければならない悪行すら、許し合う深い人間像である。韓国の人が芸術の世界を知る民である。同時代人として、日本より作品のレベルが高いと何度か感じたことがある。レベルの高いはずの韓国人が何故あの像を受け入れているのかがよく分からない。

 ヒットラーの土下座像をユダヤ人収容所跡地に造るというようなことはありうるのだろうか。人類すべての謝罪という意味の土下座像表現はあり得るのだろう。たぶんそれはヒットラーの間違った理解に繋がる像になるだろう。謝罪しない人間を銅像によって謝罪させる意味は、やはり人間の否定である。謝罪は心からの物で無い限り、無意味ではないだろうか。

 アベ氏は言葉では何度も謝罪をしている。不可逆的な解決とした、朴 槿恵政権との従軍慰安婦問題解決のさいも、日本政府の認識として、従軍慰安婦を認め謝罪を行っている。ところがこの重いはずの謝罪が、謝罪にならなかったのだ。謝罪という物は許しを得るまで繰り返すほかないということなのだろう。

 日本政府が謝罪をすると言うことは、その気持ちが日本外交の形に具体的ににあらわれていなければなら無いと言うことだろう。不可逆的解決とは、韓国は従軍慰安婦問題を二度と持ち出さない代わりに、日本は韓国に対して不可逆的に謝罪の姿勢を取り続けるという意味なのだろう。終わったと言うことではなく、永遠に続くという意味なのだ。

 ところが、日本はこれですべてが帳消しになったというような空気になった。これが韓国に反感を起こしたのだ。少女像の撤去を出来ないのは不誠実ではないか。むしろ居丈高な対応が強くなった。このためにせっかくの不可逆的解決という関係の正常化への道が、又元に戻されたのだ。

 ヒットラーのユダヤ人虐殺はヒットラーだけの問題ではない。ドイツ人すべての問題であるし、掘り下げて考えれば、人類すべてが負わなければならない罪だ。人類としての反省が出来ないが故に、トランプやプーチンや習近平や安倍晋三が何度でも現われるわけだ。

 自分は関係ないと考える人が居ては成らないことなのだと思う。日本人が行った、アジアでの1000万人という戦争死者を人ごとではなく反省しなければならない。加害者としての日本人を思い出さなければならない。ここには言い訳などいらないのだ。


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