絵はどうすれば完成するのか。

   



 絵で一番苦しいところは絵を完成させるということである。一応の完成の判断は前に描いた絵より良くなっていなければ行けない。これが難しい。そういうことはまずないから、いつもできたという気になれない。

  完成したとすれば、それが自分だと言うことになる。それが怖い。そんな程度の自分と思いたくない。本当は何にもない自分なのだけど。だから、まだできていないと言うこととにしておくのだ。いつも途中で終わりになる。

 結局一年もひたすら同じ場所で描いていて、前より悪くなっていたりすることが多いのだ。年をとると言うことは情けないが、そういうことである。普通誰しもそんなもんだ。自分を例外と考えたいが、そうも行かない。

 絵はダメだということさえも、完成しない限り分からない。完成していないと言うことはその判断の範囲にさえ入らないと言うことだ。判断したくないから、完成ではないと言っているようなものだ。期待が残るところで止めている。

 完成してしまえば大抵はつまらない。だから人の絵はダメに見えるのだ。人の絵は可能性部分を見ないからだ。情けないことだが、自分の絵ではまだ描けていない部分にしがみついている。止めてしまう勇気もないと言えばそうなのだが、やはり自分の一発逆転に期待をしているのだ。


 こうして描いてきた絵を並べてみている。額に入った絵は先日一応できたと考えて、一枚の繪の水彩人展に出品したものである。自分なりにできたと考えたものだから、これより良くなればできたと言うことでと言う、物差しである。

 内田樹さんのブログを読んでいて、つい学生時代ひたすら絵を描いていた感覚を思い出した。三島由紀夫と全共闘の討論の話を読んだからだ。どこか腹が立ってきたのだ。腹が立つ理由はあの時と同じだ。たぶん自分はあれから曲がったまま、いろいろに脱落してきたことにだ。

 あの頃は自分の役割に正面から向かっていた。ダメな世の中だと思うなら、自分がなんとかしなければならないと思っていた。そして、絵を描いてダメな世の中を何とかしようと思っていた。なんと馬鹿げていたか。こう考えてしまうことが情けない。

 三島は日本の未来をあきらめて自殺をしたわけだが、全共闘の我々わぁーとさけんでいたあの人はここまでどう生きて、革命を続けてきたのかと思う。たぶん、どこかで体裁良く生きたような想像をしてしまい、腹が立ってきたのだ。何も内田さんがそうだという意味ではない。

 全共闘にも死んで至った奴もいる。ぬくぬくと生きてきた私はどうなのかと。それに答えられるように絵を描いてきたかと言うことである。絵が完成できないなどと泣き言を言っている場合ではない。もうあと少ししか時間はない。



 すごい色の海なのだが、まだこれが描けない。写真にもその感じすらない。絵が描けたと言うことは絵が私の言いたいと思うことを、言ってくれていなければならない。結論はあり得ないのだが、結論めいて言えば、私の絵を見た人が自給的に生きる勇気が湧いてくると言うことだ。

 勇気づける絵だ。資本主義は終わりが近づき、悲惨な状況が近づいている。人間は自給自足で生きれる。それが最後の場だと言いたい。自給自足で生きることの豊かさと安心立命を私の絵は伝えるものでなければならない。

 三島由紀夫も全共闘の人もひとしく考えていたとおり、日本はどうにもならないところまで来た。あのときの怒りや絶望を、生きてきたものはどう返せるのか。言葉はドンドン絵の完成の話から外れて行くが、そういうどうしようもないことをなんとしようということをあの頃は絵に託していた。


 もう田んぼは水面が見えなくなり始めた。この場所で描けるのももうしばらくである。田んぼには自給という意味がある。そういうことも表現したい。

 

 - 水彩画