偶然を拾うのがわたしの絵の描き方

   


 伊南?牧場の中に入れていただき描かせて貰っている。牧草地の起伏のうねりに惹きつけられているのだと思っている。木々の向こうに見えるのが名蔵湾である。こんな見え方の海が面白い。
 何故こういう描き出しなのかと思う。考えがあるわけではなく、ここはこういう描き出しになっているとおもうしかない。この場所は素描をしようと思うと描きたくなる場所だ。

 ひとつの要因として空間構成が近い場所が素描をしたくなる。空間そのものを素描する能力がないので、広大に広がる場所の素描はできないのだろう。空間を表すためには形より色や調子のようだ。
 自分では空間が好きだと思っているのだが、案外そうでもないのかもしれない。空間が近い方場所の方が、初めから決めて色を置いて行きたくなるのかもしれない。空間が広がっていると無彩色でおさえておきたくなる。そんな気がする。

 絵を描いていると、常に行き詰まっている。いつも先がまるで分からない。どこに向かっているのかさえ分からない。何をやっているのかさえわからないという絶望的な気分に陥る。恐ろしい疲労感に押し潰れそうになる。それでも絵を描きたいという気持ちに支えられて、あれこれ思いつくままにやってみる。

 慎重になってしまい、挑戦ができずにいるときもままある。それでも自分がすでに獲得した物で、絵を描くと言うことでは満足できない。自分を空白に戻して、今まで描いたこともないような絵を描きたいのだ。それが面白い。もちろんそんなことはできないことなので、疲労する。
  自分という物を突破して、絵を進めるためには 好奇心、柔軟性、持続性、楽観性、冒険心の5つが必要なようだ。そんな文章を読んだ。なるほどと思う。創造的な仕事はそうでなければ不可能である。

 偶然であるのだが、たまには何か思いつきでやったことが、意外に何か次につながっていることがある。これを掘り下げてみる。すると意外に腑に落ちたような結果になる。全くの思いつきの結果だから、脈略があるわけでもない。

 しばらくするとその新しい段階を開いたかに見えた物が全く陳腐な物だったという気になる。どうにもならないような、こんな馬鹿馬鹿しい繰返しの中で絵を描く。その絵の先にあるのは「自分という物」だと言うだけが、よりどころである。

 自分に至ると言うことは他の誰にもできないことだから、私として生きている命の唯一の方角となる。だからどうなのかと考えれば、その先にはなにもない。訳の分からないような、不安定な心境の中で絵を描くことになる。好奇心、柔軟性、持続性、楽観性、冒険心の5つを支えにしよう。

 絵を描きたいのは生きる焦りのような物かもしれない。焦りと言わないで柔軟性でも、冒険心でもいいだろう。自分という生命を燃え尽きるまで楽観で行きたい。こういう始末の負えない我欲なのだろうが持続性とも言える。何かにとりつかれたような物だ。

 やっとたどり着くとそれを否定する自分が登場する。たどり着いてはいないと指摘する自分がいる。それでも又絵が描きたくなるのは好きだからに他ならない。

 具体的に言うと最近発見したというか、気づいたのは近い距離の風景を構成する角度と、遠くの風景の角度が違うと言うことだ。遠近法で言えばごく当たり前なのかもしれない。遠くに行けば、だんだん物は水平に並行に見える。

 これがどうも私の絵ではおかしいと言うことになる。俯瞰で物を見ると言うことは空から地上を見ているような物だ。風景を理解するにはドローンで見ているような認識の仕方だ。あの島はついたてのように見えるが、実はまん丸の島なのだと。そうなると水平線は水兵ではおかしいと言うことになる。

 山であれば、どんなに遠くとも平たい板のような物はあり得ない。どっしりとした量が存在する。頭はそういうことを認識する。となると遠くの物は並行に見えてはいるが、実は並行ではないと言うことになる。

 そうなると例えば一番遠いい水平線は水平ではなく角度があるはずだと見えてくる。私の見るというのは、視覚的な物ではないから、こういうように考えればそう見なす。それの方が収まりが良い。

 こういう思いにとりつかれてしばらく描く。しばらくするとなんと馬鹿馬鹿しい物の見方であるかと、水平に戻る。これは理屈で分かるようなことだからまだいいが、色でも線の引き方でも、いちいちがこんな調子で変化して行く。

 絵を描くことには無限の変容がある。その変容の意味を、ああ分かったと思うところに醍醐味がある。数学の難問が解けたような感覚になる。数学者だって難問に取り組んでいるときは苦しいだろう。しかしいつか解けるかもしれないと、苦悩する。その命題にとりつかれた以上離れることすらできない。

 絵も同じである。ここに風景画の問題があるととりつかれた以上離れられない物になる。絵を描くということには、問題が今にも解けそうな感覚がある。そうなのかもしれないと、一枚の繪で模索が始まる。近づく感じがあるから面白い。面白い模索だから、次々と描きたくなる。

 釣りにも似ているし、囲碁や将棋とも似ている。絵に惹きつけられるのは、そういう模索が画面として残ると言うことだ。魚拓や棋譜である。これが絵として残っている。ダメな自分の模索が絵の上に残っている。ダメと言うことが分かるだけでもすごいではないか。

 次の絵ではもうすこし模索だけはしっかりしなければと思う。できないとしてもちゃんと問題に取り組めという気になる。自己確認をしながらの探求ができる。
 これが描き進めた絵だ。もう一息の所まできているように見える。後何がいるのだろう。この琉球松が魅力的だ。こうしてみると描き始めの時から、この松を描こうとしている。つまりこの松が空に伸びて行く姿を描くために、地面のうねりや海の青さがある。
 絵は置き換えなんだな、と言うことも時々頭をよぎる。見ている物をどう正確に写し取ったとしても、絵の画面の上に置き換えている。その置き換え方に自分と言う物が絵に表われている。そう考えて良いかもしれない。
 その置き換え方が、他人の置き換え方をまねた物であれば、いやなものだ。どれほど好きなボナールであれ、その置き換え方を身につけたくはない。やはり自分のやり方を見つけなければ面白くない。
 この松の描き方は自分で模索した。誰かの木の描き方から学んだと言うことはない。下手な物かもしれない。それでも自分ではこのように自分が木を見たと言える。それは良いことだ。
 

 

 - 水彩画