石垣島には円盤基地がある。白保ビッチムリ
不思議な石積みが石垣島の白保にある。何なのかと思う。誰が作った物だろうか。何のための物だろうか。風景を描ける場所を探していて偶然ここに出てかなりびっくりした。ビッチムリと言うものらしい。円盤を呼ぶための着陸基地を誰かが冗談で作ったのかと思った。冗談ではなく本当にそう思った。
おかしな集団がこの塔を列をなして登って行く幻覚を見てめまいがした。不思議な石積みであるがつい笑ってしまった。何かしら恐ろしげなのだが、ユーモラスでもある。隣の畑におじさんがいたので、これは何なのですかと聞いてみたのだが、返事がなかった。
絵を描く良い場所を探して、島のあちこちを歩いている。白保の幸福牧場の当たりは海の見えるユナムリと呼ばれる丘である。丘の高いところにへそのようにある。へそは琉球石灰岩で積み上げられている。
広い農地が広がっている。牧草地が多いのだが、牧場の周囲は石積みで作られている。琉球石灰岩の多い地層なのだろう。この石垣の柵は絵になる。構造物として美しい。
この石垣が連なり、空間を区切る。白い石垣が牧草地の緑を際立たせて魅力的だ。グスクを取り囲む城壁も、実に造形的なのだ。強い陽射しの中に明確な沖縄的造形性。これはこのビッチムリにも当てはまる。
どこか絵が描けそうな気がして、時間があるときに探している。幸福牧場の中に入るとここはいいという場所はありそうなのだが入ったことはない。しあわせ牧場なのか、こうふく牧場なのか名前に興味がある。随分と広い牧場であるがあまり牛は見ない。
丘の上に行ってみようとぐうぜん、この渦巻き状に積み上げられた琉球石灰岩の山に出くわした。何を意味するのか、誰かがふざけて作ったのか。意味不明のものであった。これも石垣島の漫画文化で、近所の人がふざけて作ったのかと一度はそう考えて帰った。
帰ってインターネットでびっちょむりを調べてみるとこれは白保の史跡とある。しかし、その由来などは表記されていない。あれこれ調べている内にこれが火番盛(ひばんむい)で有ることが分かる。
鳩間島の火番むい
先島諸島では、1644年頃に、琉球王国を付庸国としていた薩摩藩の要請によって遠見番所が設置された。のろしのための火を燃やして監視にあたったことから、先島諸島では火番盛と呼ばれる。火番盛では、中国への進貢船の航海状況や異国船の到来を監視し、のろしを上げて各地の火番盛伝いに番所や蔵元に通報し、琉球王府へ知らせた。
竹富島の火番むい
火番むいでは有るが、形としてはエネルギーが渦を巻いて登って行くというような様子だ。そういう丘の畑がたしかシュタイナー農法にあった。安曇野のシャロムヒュッテにそういう丘の畑が作られていた。沖縄本島の読谷村の病院の庭にもあった。これは精神の安定の丘で花が咲いていた。どちらも一応登った。だからビッチムリの丘で三丘制覇した。
しかし、この白保のユナムリの丘にあるビッチムリは実にボッシュの絵を見ているような不思議感がある。それは琉球石灰岩の白い色のせいもある。バベルの塔のようでもある。どちらかと言えば、有元利夫の花降る日を思い出した。
有本利夫はビッチムリを見たかもしれない。私も同じような幻想を見た。異空間である。この絵の穏やかな不思議にも、笑いがどこか潜んでいる。こんな物はそもそもおかしな物だ。
火番むりが実用性だけの物なら、何もこんな不思議な形にする必要はないだろう。沖縄の神聖は空の果てのなにもない空間である。だから御嶽(うたき)には火をたく場所の石以外何もない。ビッチョムリも火をたく。確かに隣の島への伝達ではあるのだろうが、それだけであったかどうか。
ひときわ高いところから、空の果てに何かを伝えようとした場所でもあったのかもしれない。そうした神聖をこの場所に感じる。あっけらかんとした神聖。何もないという神聖。この明るいすがすがしさこそ、南の日本人の神聖の概念ではないだろうか。
絵においても同じだと思っている。そこまで言っていいのかどうか迷いはあるが、私が描こうとしている物はどこまでも明るい風景である。まばゆいほど明るい神聖である。明るい祈りである。明るい願いである。明るさという希望である。
光という物の意味を印象派は模索した。そして、日本人の光は精神であると私も思う。精神の印象派とはそういうことなのだろう。ゴッホやモネが明るい光を通して日本に感じたのはそういうこともあったのではないだろうか。
暗いとか、悲しいと言う世界が気持ちにより添うと言うことがある。情感のような意味だ。しかし、明るい精神性は絶望を超越する。明るい光の輝きを描きながら、どこまで深い精神の世界を表すことができるか。これが課題だろう。
心震えるような明るさ。明るさの向こう側にある世界観。笑いながら話す希望。世界が情けないような状況になればなるほど、真剣な希望を描く必要がある。今はそういう時代ではないだろうか。
本当の大事なことは笑いながらしか言えない。本当のことを話そうとするとつい笑ってしまう。笑いになるような神聖が、大切ではないだろうか。びっちょむりを見ていてそんなことを考えていた。