絵が偽物であると言う意識がどこかにある。
絵を描くと言うことが生きていると言うことになるのが願いだ。描いた絵を絵空事として感じてしまう自分がいる。物を作り出すと言うことに伴う意識の問題。禅においては、物には関わらないという意味が少しだけ分かる。
絵という物に頼って自分という存在を証明することは、できないことなのだろう。良い絵を描く自分、あるいは絵に没頭する自分というあり方への依存。そうした事物で自己証明すると言うことは危ういと言うことなのだろう。
この煮え切らない不安はたぶん死ぬまで続くのだろう。それを払拭できるとか、克服できるとかは思わない。この曖昧さを抱えたまま絵を描いて行くほかないのだと諦めている。明らめている。
ギボクというモノがある。香港フラワーという物がある。これは偽物であることが売りの商品である。全く香港に失礼な商標だが、どちらも大嫌いだ。木なら木のほうがいい。花なら花がいい。木をまねる必要はない。花を偽造することはない。コンクリートならコンクリートでいいではないか。
造花を飾るぐらいなら、何もない方がよほど気分が良い。プラステックの造花を美しいと感じるようなことはない。それでも何もないよりはましなのだろうか。昆虫が見間違うほど、精巧な物になれば人の目は簡単に欺ける。しかし、偽物だと知っていて、お墓に供えることができるだろうか。
偽物がイヤなのはそのもに見せかけようという卑しいところがイヤなのだ。そのものでは無いのであるが、そのように一見見間違えさせようという気持ちがイヤだ。こういう見せかけだけのところがイヤらしくないか。
擬木の手すりにはその役割がある。本物の木では腐ったり、強度がなかったりする。しかも、一見木であれば、その自然にわずかになじむ。なじむと言えるのか違和感が強まるのか。公園の手すりがただのコンクリート製であるより、ましなのかもしれない。と言う感じ方には耐えがたい。
壁紙という物もそうだ。一見大理石に見える、一見どころかほぼ判別できないくらいの大理石風ビニールと言う壁紙もある。実は私のアトリエの壁もでこぼこのあるビニールである。それが絵を見るには一番いいと思ったからだ。本物の塗り壁では絵を見るのには不都合である。無味乾燥な見やすい背景を選んだら、偽物の塗り壁風壁紙になった。
庭石でも、専門の庭師が見間違うというほど精巧なブラステックの庭石があるらしい。触らないで判断できるか調査するテレビ番組があったが、庭師が本物の石を判別できないで間違えたのだ。やらせなのかなぁー。
こうなるとビルの屋上庭園などプラステックが勝ることになるだろう。しかし、ビルの上にまで石庭がいるかどうかは別になるが。プラステックとなると、庭石彫刻家が新しい自然ではあり得ないような形の石を作り出してしまうかもしれない。
そういえば、彫刻もブロンズまがいのプラステック素材がある。軽いから扱いやすいのだが、やはり偽物はいただけない。それくらいなら、石膏像の方がきれいだ。私はテラコッタの質感の方がいい。しかし、植木鉢などではテラコッタかと思ったプラ鉢もある。
近代化は偽物文明なのかもしれない。大量生産大量消費ということは、本物だけではまかなえないことになる。つまり、プラスティク文明は偽物文明なのだ。ところが、ここまで来ると、擬木の方が本物で、本当の木の方が劣るまがい物と言うことなることもあるだろう。
手書きよりも、印刷物の方が信頼性があるという誤解。印刷という事すなわち大量生産であり、より正しい物のような印象がある。新聞の正しさである。手描きの手紙に書かれたことでは,世間には真実とは受け取られにくい。
何でこんな馬鹿馬鹿しいようなことを長々書いたかというと、自分が描いている絵が偽物ではないかとイヤな感じがつきまとう。つまり作り物で有りたくない。絵は作り物であるに違いないのだが、作り物でない観念が表現されていて欲しい。
例えばそれは見えているという事実である。ここに立てば見えるという真実に接近する。それが写実なのだろう。感じたという事実にたてば、感覚表現なのだろう。絵をこう考えたという観念に立脚する絵もあるのだろう。
絵で描くのは描写ではすまないと言うことだ。描写と言うことはどこまでやっても偽物を作ると言うことだ。写真がそうだ。写真を見て私は感動などしない。写真を写した場所がみたいと思う程度である。写真芸術などと言うが、絵のような意味で作品と思うことはない。あくまでドキュメントとしての評価だ。
絵画が芸術であるのは作者の観念の表出だからだ。そういうことは古い考えかもしれない。私の芸術論は小林秀雄の近代絵画から一歩も出ていないわけだ。よく言えば年季が入っている。50年以上もそこから考え始めて抜け出せないでいる。
芸術としての絵画は偽物ではダメなのだ。観念として本物でなければならない。絵は本物ではないが、偽物でもない。絵は表現と言う意味では、本物も偽物もない。その人が作り出したと言う所に至れば偽などない。
絵を見て描いた人が感じられないような物では始まらないという、単純なことに戻る。自分が見えていると言うことが、自分らしく見えているのかどうかと言うことだ。
少しややこしいが、この辺に自分の方角があるらしい。自分らしく見える努力を重ねていると言うことになる。