移民と国家
絵を描く上で自分の民族性とか、文化の傾向とか、育った国のことは重要なことだと考えている。自分という存在は日本文化の中で作られたと言う自覚がある。日本人の目で見ている。
今日の月は白いな。と先日の夜眺めていた。眺める感慨の元になる物が、琳派の絵であったり、好きな白土のかけられた調子であったりする。物を見るという基本には文化がある。
民俗にこだわるわけではないが、自分の絵の骨格をなす物は日本人としての感性だと思わざるえない。自分が美しいと感じていることは、日本人として成長してきた結果なのだと思う。
その意味で移民するとことはすごいことだと思う。石垣島に引っ越してみて、むしろ日本人という自覚が高まった。日本人らしい感性は石垣島の方が残っている。日本人を再認識する意味でも来て良かったと思う。
過去の日本が行った意味は日本人を海外に棄民したようなものだった。その政策の総括は充分にできていないのだと思う。人口が増え、農村で人が余った。その人減らしが移民であった。
今度は労働力不足と言うことで、移民を受け入れる政策を始めた。深い考えなく労働力の補充と言うことだけで、考えて良いことだとは到底思えない。日本国がどこに向かうのかと言うことが曖昧なまま、移民を始めることはおかしな国になる。
それは憲法改定においても同じことだと思う。日本がどんな国になりたいのかがを、充分国民的議論にしないで憲法を現実に合わせるという考えは極めて危険だ。明治帝国を目指すというなら、移民などもってのほかのことになる。
単なる経済のご都合主義で、石油を安定的に確保したいとか。労働力を補いたいとか。現実に流されて、やってはならないことが行われようとしている気がしてならない。日本人は実に微妙な危ういところで成り立っているようなところが有るとおもっている。
中国人は外国に出て行く。どこの国にでも居る。そのたくましさは日本人とは比べようもない。食べ物でもそうだ。何でも食べる。新型コロナウイルスのことを考えていると、実に中国的な話だと思う。
市場で売られていた野生のアナグマか、ネズミなどの動物から感染したらしい。野生動物にはコウモリから感染した可能性もある。もしかしたらコウモリも食べるのかもしれない。大都市の市場で、コウモリが売られていて食べる人がいるかもしれない不思議な国。
こうした状況を見ると全く日本とは違う世界のような気がしてくる。中国人は移民をする民族である。世界中に中国人の居ない街はないのではないかというほど至る所に中国人は暮らしている。過去の中国からの移民は貧困から抜け出すものであったのだが、現代の中国の移民は富裕層の脱出が目立つ。
中国人が移民するのはその気質と言うことが大きな要因ではないだろうか。独立心の強い民族で、他民族の中で一人であっても暮らして行ける精神的強さがある。日本人はこの点では周りに気心知れた人達で満たされていないと安心できない精神構造である。
中国人の独立的性格から中国から人が出て行く。中国国内の環境汚染や食品・医薬品の安全問題、公共サービスの悪さや社会的不平等、法体制の不整備と権力の横暴を原因とする「不安感」や投資・ビジネス環境の悪化などが、多くの人々を海外移住へと駆り立てる要因となっている。
言ってみれば、中国の自然・社会・政治・経済環境の全体、すなわち「中国」そのものに対する中国人自身の嫌気と不信感が有るようにも感じられる。それぞれに中華思想は堅持しているのだが、愛国心とそれとは違う。こうした民族性が現代の移民を引き起こす要因となっている、可能性が高い。
富裕層が資産を安全に運用するために、中国国外に投資をする。中国一国に投資するより、多様な投資の方が安全である。そうして投資を続けている内に、投資先の国に永住権を得られる権利が生じる。
例えば米国への投資によるグリーンカード永住権取得制度で、米国に50万ドル以上投資すれば移民の申請が可能となる仕組みが有るそうだ。この制度によって、毎年数百人の中国富裕層がアメリカに移民している。
たしか、フランスでも一定額の貯金があれば、カルトセジュールをもらえるという制度があった。永住権ではないが、暮らしていることが許可されるしどである。
こうした制度のない国でも、成長著しい国にたいしては中国人の投資が行われている。日本も一時は中国人の不動産投資が賑わっていたが、今はそれほどでもないのではなかろうか。日本に投資して、日本に脱出する用意をしているという話も聞いたことがある。
日本にも労働者という形で、アジア各国から多くの人が移民してくる時代になった。そして日本人がやりたがらない労働を引き受けてくれている。ありがたいことであるような、情けないことであるような。日本がダメになって行く兆しのような複雑な思いがある。
潮が寄せては返すように、移民の波は大きくなり小さくなり、次第に津波のようになるのかもしれない。日本という国にとっては大量移民は初めての経験である。全くの見切り発車である。何の対応策も、国民的合意形成もないまま、企業の労働者を欲しいという要求に、アベ政権が従っただけだ。
こうして様々な劣悪環境で外国人の奴隷労働が行われている。ひどい扱いがなされていることは、大体の日本人は気づいている。気づいているが、見て見ぬふりである。知らないこととして済ませている。
ブラジルから、労働者として日系人が日本に来ている。そして日本への移民というような形で、日本に定住する。こうしたことが労働人口不足から奨励される。国家で人間がいいように扱われている。
国家というもをどう考えるかである。同胞というものを重んじ、自給国家を目指すべきだと思っている。何か深い考えに基づいていると言うより、日本人の肌合いは私にはありがたいからだ。
絵のことでもフランスにいた頃美術学校の生徒同士でも、どうも絵の根本が違っている感じがあった。私の感じているマチスと、フランス人にとってのマチスの絵はまるで違うのではないかというような不安定さを感じていた。
外国に暮らすというようなことは私には到底できないと思った。ビニール袋の中に自分がいて、外界と生に接触ができないようなもどかしさである。人間と関わることができないでいる間に失語症になっていた。
何故中国人はたくましく海外に出て行けるのだろうか。それでも、中華街のようなものを作るようだから、中国も中国人の輪の中で暮らしたいのだろうか。