水彩画には鉛筆を使わない。

   

 ロダンのクロッキー水彩

 水彩画では鉛筆を使わない。水彩で鉛筆を使う人は多数派であろう。著名な作家でも鉛筆を使う人はよく見かける。勝手なことを言わせて貰えば、それは水彩画を作品制作と考えていないからだと思う。下書きか、スケッチか、せいぜいその派生した程度のものに考えている。

 ロダンのクロッキーがそうだと思う。すごいものだと思うが、水彩の作品だとは思わないのだ。すごければいいだろうとも言えるのだが、私の考える水彩画はすごいだけではダメなのだ。私という存在の表現にまで行きつこうとするものだ。

 たぶんロダンにはこの先にある彫刻が制作だったのではないか。彫刻に向かう、下書きなのだろう。もしロダンに彫刻がなければ、このクロッキーだけで終わりというわけには行かないだろう。これで良しとしてしまえば、ロダンの求める形による彫刻表現という、近代彫刻は存在しなかった。

 このクロッキーはすばらしいのだが、すごいものなのだが、それだけでは作品とは言えない。

 日本画の人や、油彩画の人が、スケッチをする場合、安直なものとして水彩材料で描くことがある。そうした場合、まず鉛筆で当たりを付けるのが普通であろう。二つの理由がある。ひとつは筆では鉛筆ほど自由がきかないからだ。つまり、昔の人のように日ごろから文字も筆で描くような人は、鉛筆で描くなど思いもよらないことだろう。明治初期までの日本画家はそうであった。日本画家の人はそういう筆遣いの訓練をした。

 筆で描く線はそれほどすごいものだと思っている。鉛筆の線。ボールペンの線。フェルトペンの線。筆で描く線には及ばないのではないか。木炭や、パステルの線はかなりの自由があるが。しかも筆で描くと言うことは色彩も自由と言うことになる。
 
 もう一つの理由は、鉛筆の線が意味を表す線になる。黒い線は意味を表す説明になる。漫画やイラストではよくあることだ。これは木です。これは家です。これは人です。そういう説明を黒い線で行う。線の説明の上に、塗り絵のように色を入れて、水彩イラストのようなものを描く。説明表現を鉛筆が行っている。

 木村忠太の絵も同じようなことが行われている。筆で黒々とした線で説明が入る。その書のような筆による線は絵画として画面にある。まず鉛筆で意味を示しておくというやり方は真逆で、最後に絵画として入れている。

 水彩画というものを本画と考える者には、線による説明や、鉛筆による下書きは不要なものになる。絵画というものは説明から始まるものではない。説明をしてしまえば見えているという本質から遠ざかる。そして筆で自由に描けないようでは単なる技術不足ということになる。

 もちろん黒い線で説明を加えたいなら、筆で説明をした方が作家の見えている世界観を表すことが出来るはずだ。鉛筆を使うと言うことによって、むしろそうした私表現を消したいと言うことになる。筆を使わず、スプレーを使うと言うことも同じだ。

 例えば安野光雅氏のような絵の場合、鉛筆が主要な要素を成しているものもある。そういう作品を私は絵画とは思えないのだ。良くできていて、水彩絵の具の塗り方などすばらしいと思う。私の表現としては物足りないのだ。

 その理由は絵画として考えたときに、鉛筆の説明が煩わしく見えてしまう。汚らしくしか見えないからだ。何故説明を表す鉛筆の線を汚いと感じないのかが私には不思議でならない。もしそれを美しい表現と考えているとしたら、そもそも絵画という意味の考え方が、私とは違うのだろう。当然のことで、私の方が世間的ではないわけだ。

 当然その場合、私が少数派で,異端と言うことになる。安野氏だけではない。多くの水彩画家と称する人が、鉛筆の下書きを平然とやっている。どう考えても信じがたいことなのだ。不遜な意見かもしれないが、水彩画が社会的地位を確立できない理由がこういう所にある。

 同じ大きさの絵画なら、画廊などでは格安な扱いになる。水彩画を描く人にも、油彩画を描いてくださいと画廊から言われることになる。有る画廊では水彩作品の場合どんな大きさでも二号扱いと決められていた。

 水彩画はあくまで本画のための下図扱いなのだ。水彩の方が耐久性が劣るなど言うことはない。水彩画の方が安価に制作できると言うこともない。制作時間がかからないなどと言うこともない。それなのに価格が低いのは、水彩画家の地位がまるで、下図しかかけない人と言うことである。

 絵画的理由としては水彩画の卓越した色の美しさや、筆触による表現がまだ充分に表現されていないという所にある。そもそも水彩画も日本画も顔料は同じである。同じ顔料をより細かくしているのが水彩絵の具である。それ故に、水彩絵の具は透明感があり、より繊細な色合いを持っている。現代では塗料の発達で、より小さな顔料で、透明な色彩が安定して表現できるようになっている。

 この優れた特徴を絵画制作で発揮している作品は極めて少ない。作家と呼ばれる人が水彩画を下図を作る材料としてしか考えてこなかったからだと思う。本画は日本画か、油彩画と言うことで来てしまった。

 水彩を優れた材料と感じる者が、水彩画というものを作り出さなければならない。不遜にもそういう考えでやってきた。だから、水彩画で平然と鉛筆を使う作品を見ると違和感を覚えて仕方がない。
 

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