2020年の「描き初め」は崎枝の田んぼ
一日目の制作
2日目の制作
今年の正月は玄関先でモザイク画の制作に専念した。陽射しが強く汗をかくほど暑く、不思議な石垣島の正月だった。正月の間に終わらせるつもりだったので、2日の恒例の書き初めが出来なかった。
元旦には於茂登神社まで若水汲みに行った。於茂登神は山そのものが信仰の対象なのだろう。於茂登岳は石垣島の暮らしをいつも見守ってくれている。麓のどこでお参りしてもいいのだと思うが、名蔵ダムの奥に小さな社がある。
この場所は私の知る限り、石垣島で最も神聖な空気のある場所だ。ここには小さいけれど清冽な滝もある。ここで若水を汲みお参りすることを初詣とした。ダムが出来る前はもしかするとダムの中に於茂登神は祭られていたのかもしれない。ダムが出来たときにこの場所に移されたような気がするがどうだろうか。
去年の正月は夜の間に除夜の鐘が響いてきたので、てっきり朝も桃林寺さんは開いていると思って初詣に出かけてみた。ところが何故か7時頃には門が閉まっていた。きっと桃林寺さんとは縁がないのだろうと決めた。
今年も除夜の鐘は聞こえてきた。高校生の頃豪徳寺さんのそばに住んだときの鐘の音を思い出した。実に良いものである。これを騒音という人が居ると言うことが驚きである。今年は最初から於茂登神社に参拝した。
汲んできた若水で書き初めをするつもりだったのだが、正月3が日はモザイク制作に専念したので、残念ながら、書き初めが出来なかった。3が日を過ぎてから書き初めというのもどうかと思い、4日になって名蔵湾に描き初めに出かけた。
書き初めが字の上達のお願いごとであるなら、水彩画の描き初めの方が私には良いかもしれない。絵を描くと言うことは自分の努力ではどうにもならないようなものだ。良い絵が出来るという時は絵が降ってくるような感じだ。だから描き初めで水彩画の上達を願ったとしてもおかしくはない。
絵はたしかに突然訪れる。そのときを待ってできうる限りの努力を続けているのが、絵を描くことなのかもしれない。絵は来るべき時には来てくれている。絵はそういう願いの集積のような気がする。自分に出来ることはただひたすらに描くと言うことだけだろう。只管打坐というが、只管打描ということになる。
絵を描くときに何かを考えると言うことはまずない。この点でも座禅と同じである。ただただ無意識に画面に対して居るだけである。画面を前にすると、いつの間にかそうなっている。絵に現われてくるものに対して、自分の意識がそれとたいしているだけになる。
風景に向かい合う状態が良い形であるように整える。同じ事の繰り返しが大切だと思っている。車にはいつでもかけるように準備がしてある。保温ボトルをもって、ファミマに行きカフェラテを2杯入れる。これも変えない。アイスコーヒーにするとか言うこともない。考えないで毎朝同じようにする。
ファミマを出るときにさあーどこに行くとするかと決める。現在写生場所は10カ所ほどある。その中から一カ所を選ぶ。いつもの写生場所に着いたらば絵を描く準備を整えて、描き始める。一息ついたならばカフェラテを飲む。二息つき、三息ついた頃に絵は一応描くところが無くなる。
こんな描き方を、石垣島にいる間は毎日続けてきた。できれば、これからもこんな日々であればいいと思っている。良い絵が描けるのかどうかは,目的と言うより降りてきた結果のようなものだ。
描き初めは崎枝の田んぼに行った。石垣に戻ってから、鉛筆素描だけやっていたので水彩画は1ヶ月ぶりになる。崎枝では鉛筆素描はしなかった。描きにきたのだが、田んぼに水がなく、描く気持ちになれなかった。
何を描くのだろうかと、期待もする。こんな絵を描こうという気持ちはないので、どんな絵になるのかは全くこの時点では分からない。ただただ、方向なく描いていることは不安ではあるが、自分を信じて、絵を待っているほかない。
そして描いた絵が冒頭のものである。もう一日今日も崎枝で描くつもりだ。同時にもう一枚描いてみようかとも思っている。紙をファブリアーノから、アルシュのロール紙に変えてみようかと思う。
やってみなければ何も分からないが、今日は少し違うように描くかもしれない。制作をしてみたい気がする。写すのではなく自分というものに近づけてみたいと思った。そういうことはアトリエで眺めているときに思う。
良い絵だと感心する絵はその人の絵だと言う点が一番である。その人の世界観の魅力である。私の絵は自分の感じには近づいているようだが、その世界観が煮詰まったところがないのではないか。
少し、生ぬるくなっている。もっと厳しく迫ってもいいのかと思う。しかし、それも意識的に厳しくしたところで始まらないのだが。自分の見ているものにもっと肉薄しなければならないとアトリエで思った。
そうは言いながら、実は「描き初め」で描いた崎枝の絵は希望があると思っている。いい方向に進んでいるような気がしている。ある意味自分のインチキも出ているような気がしてそこがいい。少なくとも自分にないものを装ってはいない絵だ。