小農と言う考え方で自給農の意味がはっきりした。
現代農業に小農の再評価がされていると書かれていた。しかし、小農という言葉には違和感がある。小農は文字通り小さな農家という意味でいいのだろうか。もしそういう意味なら、良い言葉とは思えない。大小で農業を分類することで、誤解を生みかねないと思うが。農業の内容がわかる言葉にすべきだ。
私は自給農という言葉を使ってきた。一種の造語なので、誤解をする人がいた。農水省の言う、自給的農家と混同するらしいのだ。農水の自給的の的は官僚言語である。的をくわえれば、曖昧領域も含めることができると言うことだ。
自給農と言う言葉を使ったのは思想的な意味を込めている。人間が生きる基本が食に在ると言う意味だ。食は本来自給するべきものだという考え方である。食の生産を個々の人から、分離したことは産業革命後の資本主義である。大量生産を可能とする労働力の創出が背景にある。
プランテーション農業の登場により、農業は競争原理に基づき、収奪的なものに変化して行く。これは現代の農業の考え方を支配している。利益の出る農業が価値のある農業とする。大規模化、機械化に巻き込まれて、自給としての農地利用は失わる経過をたどってきた。
大規模化できない農地。機械化できない農地は放棄されて行く。多角化とか、高付加価値とか、6次産業化とかいろいろ言われるが、中山間地ではそうした方向も上手く行くところは限られているので、農地が放棄され続けている。
もし高付加価値化や多角化の方向に小農というものを位置づけるとすれば、小農は成立しがたいだろう。農業の特殊解としての小農はあるだろうが、一般解にはならない。それが現状の放棄農地の増大。地方の消滅である。自給農の連帯こそ、次の農業の回答になると考えている。
放棄農地の一般解としては都市住民の農地利用である。都市住民の余暇としての農地利用の許可である。農地には生産地という農地法の限界がある。農地法の中に都市住民の利用可能な農地を色分けすべきだ。現状では曖昧な拡大解釈の運用である。
業としての競争が不可能な農地は、経済合理性からの利用ではなく、第3の道の選択が必要になっている。自給農による利用である。それには農地を生産地としてみる今の農地法の改正が必要である。
自給のための農業には競争の原理が働かない。自分が食べるものの価値は自分が決める事ができる。漁師の漁業と釣り好きの趣味の違いである。楽しみでやる農業には釣りに勝る面白さがある。
欠ノ上田んぼのお米の価格は1万円を切る会費で120キロの分配である。労働時間は100時間ぐらいであろう。100時間を楽しみと出来るかどうかである。労働と考えれば、1キロ1000円の価格になり、競争力はない。
この考え方はおおよそすべての農産物に適合する。農の会では今度果樹の会が出来た。タマネギ、小麦、ジャガイモ、大豆、と様々なものが作られている。協働で作れば可能になる。
日本が今後どんな国になるか。普通の国になると考えるが、普通の国は食料生産を自らの手で行う国である。そのひとつの手段が、自給農への農地の解放である。食料の60%も輸入する国はまともな国ではない。
農文協には季刊地域という雑誌がある。10年経過して、記念の40号には「新しい小農層」と言う文章を秋津元輝氏が(京都大学教授)書かれている。小農というものを「自律および自立」した農家としている。そうした分類は小さいと言う言葉とは関係がないのではないか。
自然と自らの暮らしの「同時生産」としている。秋津氏の言うところの小農は私の考える自給農に近い側面があるらしいと言うことは分かるが、何故小農という大きさで表現しなければならないかが曖昧である。
農業の合理性は規模と連動している側面も無視できない。良い共同作業ができるのであれば、小さい農地という意味はない。どれほど大きくとも個々の自立性は維持される。
あしがら農の会の経験では協働して一定の規模にならなければ、自給農と言えども合理性がない。小さい農業とは小さいものが集まり、緩やかな連合次第規模化するのでなければならない。小さいで分類して終わってしまえば合理性は失われる。
ところがこの協働が出来ないのが、今までの農業の失敗である。資本主義に洗脳された人間は利己的な意識が強い。自分の利益に専念して何が悪いと言う競争意識である。これを捨てない限り、自給農も小農もあり得ない。
みんなのために農業をすることが、自分のための農業になる。こうした連携の形の模索である。これは一種の共同体幻想でもあるのだが、もしそれが出来ないのであれば、人間に未来はないと思わなければならない。
封建社会の半強制的集落共同体ではなく、自立した個人の緩やかな協働である。この緩やかなこそ、次の社会の可能性である。繰り返し失敗してきた共同体幻想のひとつかもしれないが、いよいよ限界に達する資本主義の中で、人間の未来はここにあると考えている。
小農という言葉が、孤立を意味しないか。ここが気になるところなのだ。小農が高付加価値化を目指すとするが、独自性志向になる可能性が高い。食料生産としての農業技術は独占するものではない。
自分の商品を作り出すと言うことはもちろん悪いことではないが、この競争は勝者だけを残し、大半のもの敗者にする。食料は当たり前のものである。日常の当たり前のものである。良い農業技術は人類共通の宝にならなければならない。