即位の礼と象徴天皇制の将来

   



 「即位礼正殿の儀」が、皇居、宮殿で行われた。天皇は、上皇陛下について「常に国民の幸せと世界の平和を願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その御心を御自身のお姿でお示しになってきた」とし、「国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓います」と述べられた。

 天皇制に関して、私の気持に治まるところまで来ていない。一番は天皇には人権が無いというところである。すべからく人間には人間として生きる権利がある。皇室の人にはそれが、生まれながらに無い。そうした日本人にいるということが腑に落ちない。

 特別な人というものを作ってしまう憲法を、どう受け止めたらいいのか、難しいところがある。もし憲法を変えるとすれば、一番が天皇制の廃止ということだろう。憲法審査会では議題にしないのだろうか。

 日本人にとって天皇という存在は尊いものと考えている。尊重もしている。天皇を評価さえしている。日本人は稲作によって形成された。天皇はその稲作の五穀豊穣を祈る日本人の思いを統括する神官という意識がある。今年もありがたいことに台風の合間を縫って収穫したお米を食べている。お米への感謝の思いが私の日本の根底にある。

 現憲法の天皇制は天皇の政治利用である。政治利用を禁じながらも、結局の所政治利用をしている。韓国の文大統領は天皇に手紙を書いたという。その行為自体が日本人にはなんとも言えない違和感をもたらす。ここに政治利用の自己矛盾があるのだろう。

 即位の礼には海外からも多数の来賓がいらしてくれた。そのこと自体が日本外交なのであろう。日本の総理大臣が行う首脳外交とは別の意味で、日本という国との親愛の情を深める役割になっている。日本の平和主義を直接伝える機会にもなっている。良いことであるが、これも政治である。

 天皇の外交的行為を日本のためになっていると思う。現実の外交的努力として評価してもよいものだ。昭和天皇も、平成天皇も、令和天皇も、靖国神社には参拝しない。そうした正しい姿勢も持っている。それであるとしても、天皇と言う特別な存在を造だし、委ねる形は望ましいとは言えない。

 保守政権は天皇の存在を、自分たちの政権の錦の御旗に掲げているかのごとくである。明治帝国回帰の象徴としての天皇の政治利用がなされようとしている。そのことには、私には恐怖心を伴って感じられるところである。

 令和の即位の礼に関していえば、簡素なものを天皇は希望していたようだ。しかし、日本の国威発揚の場として必要以上に大げさなものに政府はしたのではないか。昭和天皇が戦後目指した、日本国の象徴という意味も、平成天皇は継承した。たぶん、令和天皇も同じ道を歩もうということのようだ。

 皇室は現実的には女系天皇を認めない限り、途絶える可能性が高い。そこで、女系天皇を認めるべきだという人が出てきている。私はそれでは天皇という神官の意味が無くなると考えている。男系天皇としてきた本質は宗教的な意味合いである。神聖を失うのである。

 確かに現代社会に置いて、第2婦人、第3婦人は無理なことだろう。このあたりが、天皇と言う神聖な存在の終焉ということなのだと思う。少なくとも、天皇の神聖が変わるということなのだろう。そのときをもって、憲法に定める象徴天皇制の終わるときで、良いのではなかろうか。

 江戸時代における天皇のあり方が、最も優れたあり方である。明治時代に帝国主義に天皇が利用された。本来の天皇は文化を持ってその存在の意義を示していた。天皇は京都に暮らすべきだ。それは天皇を稲作の神官として、尊重するからである。修学院離宮に住まわれる事が望ましい。それが天皇と言う存在が政治利用されないためでもある。

 日本人が日本人であることを失い始めている。それは集落共同体における稲作によって、培われた日本人の創出が失われたからである。水を共同で管理し利用する暮らし。水土を司る先端技術者たる天皇家の存在。これが栽培不可能な場所にまで、稲作を携えて移動した日本人の姿の背景にある。

 集落共同稲作を継続することで日本人は生まれた。そして、稲作が個人で行われるようになって、日本人であることが終わろうとしている。その個人で行う稲作すら終わろうとしている。あしがら農の会で共同の稲作を続ける中で、共同ということを実感してきた。

 日本の文化の原点は稲作にある。天皇も稲作との関係で存在している。日本人はこの天皇の重要な意味を考えることすらできなくなっている。個人主義の問題である。各国の制度と比較するのも必要ではあるが、重要なことは日本教の神官である天皇の意味である。

 

 - Peace Cafe