水彩画が私絵画に少し進んだ気がしてきた。
石垣に来てから絵を毎日描いている。勤勉にと言うよりは、焦るような気持ちと、なんだか見えてきたような気持ちが、混ざったような気分で出かける。大体八時まえに家を出る。午前中は絵を描いている。現地で昼を食べて、そのまま午後も描き続ける日もある。大抵は疲れてしまい、午前中で家にそのまま帰る。午後はアトリエに並べた絵を見ながら、何かしらやっている。アトリエが明るいので絵がとても見やすい。アトリエでは絵は描かない。描くと絵を作るようになるに違いない。仕上げるようになる。その感じが今やっていることと違うのでいやだ。春日部先生が絵は最後はアトリエで描くようにしなさい、と繰り返し言われていたので、なんとかアトリエで描こうとはしたこともあった。ところがどうしてもアトリエでは描けない。描こうとするものが目の前にないと、画面上の制作になる。このやり方だと自分の見ているものと離れてくる。絵を描くということは、見ているものを絵にすると言うことで、絵を画面上で作り上げると言うことではない。画面の上で、制作すると言うことが無意味だとは思わないが、私のやろうとしていることとは違うと言うことだけははっきりしてきた。
では何を見ているのか。これが少しわかってきたきがする。絵で見ていることを言葉にするのは難しいのだが、一言で言ってしまうとやはりその場の美しさになる。私が感じる美しさとは空間の広がりとその動きのようだ。空間の中で色が調和している状態。光が回っているような調和状態。こういうことに惹かれる。この田んぼのある風景は実は違う方法を向いて、縦型の画面で描いていた。ところがどうも違う、違うと思いながら、苦労してしまった。たいていの場合描きたくなってそこをはじめるのだから、そういうことはあまりないのだが。この絵の場合、突如角度が違うと言うことに気づいた。田ずらに写り反射する光の角度が違っていたようなのだ。田んぼばかり描いているうちに、田植えの終わった田んぼの光の反射の状態が少し理解できてきた。わかると田んぼの水面というものが自分なりに、画面で描けるようになった。苗を描き、水面の輝きを描き、水の濁りを描き、地面のでこぼこを描く。さらに、水に映る景色というものと、直接見えている風景との関係が、少し見えてきた。それでも、田んぼの地面というものを描くのはなかなかできないでいる。水をリアルに描こうということでは無い。水面に光反射して広がる空気感のほうである。
描かなければいけないことと、描いてはいけないことの違いがある。見えているもののうち、描くもの、描かないもの、これがとても重要になる。描かないとならないものとは、その場所を作り出している根幹のようなものが見えてくると、描かないでもいいものがわかってくる。これが以前より少し前進したような気がするてんである。描くべきものがわかると言うことは、どのような色で、どのような線で、どのぐらいの濃度で描くべきなのかがわかってくることだ。その選択は水彩画の技術に従う。それがやれることからしか発想ができないものである。持ってない技法でできるものは考えつかない。水彩画でやれること、やれないことがあるので、ここが難しい。例えば盛り上げてルオーのような材質感が大きな要素になるような表現はできない。また水彩画の特徴でもある、薄い透明な着色も実に様々である。こういう技術的な要素を熟知して、無意識の反応にまで、高めなければならない。自由自在にどんな方向にも対応できる技術が、自分の感性の中にしみこんでいなければならない。
この点で自分自身が意外なのは、もう何十年も水彩画を描いてきたのに、ここに来て、新しいやり方や調子が見えてきていると言うことなのだ。まるで水彩画を始めたときのように、水彩画とはこうやるものなのかと改めて、驚きの発見が続く。今まで少しもちゃんとした勉強をあえてしていない。勉強のための勉強は嫌いだ。嫌いどころかよくないと思っている。水彩画の好きなことだけをやってきた。例えば模写のようなことをやると技術的に身につくものは相当あるのだろう。油彩画をやり始めた頃はそういうこともした。しかし、そういう学び方で学ぶと、自分には不要な技法が身につき、ろくなことにならない。自分に至ることができなくなる。他人の作り上げた技法はこわいものだ。一人歩きして、絵作りを始める。一見うまそうな絵を描けてしまう。その人の人間とは関係の薄い絵になる。若いうちは人まねで、情報を集めて絵を描くものだから、技法でできあがる、絵らしいもので済んでいるが、私絵画に入ると、その無意味に学んだものが実に災いになってくる。今になって、自分の線がどう言うものかわかりだしたようだ。借り物でないもので絵を描いてゆくことの面白さと難しさ。絵は風景を切り取ると言うことだと思う。大分長くなったので、そのことはまた別の機会に考えたい。