絵を語る会について
絵を語る会という変わったことをやっている。水彩人展本展の会場でも行う。普通に絵を描く方人から見たら、おかしなことを続けていることになるのだろう。完成させた絵を持ち寄り、自分の絵のことを語る。語ったからと言ってどうという事ではないのだが、それが自分の絵を進める手立てになると考える人が集まっている。半分ぐらいの人が、何か上手くなる秘訣が教われるのかと思って、最初はくるのかもしれない。しかし、ここで何かを教われるという事はない。こうすれば絵が良くなるとか。この絵はここが悪いのではないか、というような指摘も目的にはしていない。自慢するつもりで絵を見せたとしても、感心してくれる人がいる訳でもない。まあ、藁をもつかむ気分で集まっているのだと思う。絵を描くという同行である。お大師様はいないが、お遍路の同行の仲間がいる。というような感じで、絵を語ることの意味を手探っている。
絵が良くなるなどという事はまずない。大体は衰退してゆく。上手くなるという事が、大体につまらなくなるという事だ。技術にその人間が隠れるからだ。良さげに見える人の絵もおおよそは衰退する。それが60年絵を描いてきた結論かもしれない。そう思いながら、昨日、絵の批評会をやった。水彩人の仲間は、私の絵を見る目がおかしくなっていないとすれば、去年より良くなった人が結構いる。これは驚くべきことだと思った。絵とはどうも厳しいものなのだけれど、本気で努力している人はいくつになっても、良くなるようだ。現状維持できればたいしたもので、良くなってゆくような人は天才だけなのだと思う。悪くなっていることに本人だけが気づかないという所が、絵というもののさらなる怖さだと思う。同じであるという事は、陳腐化しているという事だ。前と似たような絵を描くという事は、芸術的探求にはない。自己否定を続けてのみ成長すると考えている。所が自分の良いところを磨き上げる、職人的完成を目指すという、日本の伝統的な文化傾向がある。このお家元的芸道等芸術とは関係がない。
これはなかなかなのかもしれないと思ったときに、そのなかなかを乗り越えて次を考えるのが絵を描くという、恐ろしい行為だ。その為には良いと思っているところを否定しなければならない怖さ。こうした酔えない怖さが絵を描くという事には横たわっている。そもそも、少々よかろうが、悪かろうが、絵画というものがもう時代の中で社会性を失っている。鉄腕アトムの素描一枚が2500万円で落札された。まさに末期資本主義社会の商業絵画時代のあだ花というべきものだ。もちろんアトムが悪いというのではないですよ。「絵とは何か。絵を描くとはどういうことなのか。」このことは社会との関連で考えることは、不可能な時代になった。もし絵を描くという事に意味があるのだとすると、自分自身の描くという行為にこそ意味がある。自分が生きる上で描くという事に意味があるのか、ないのか。絵という存在が、すでに他者とも、社会とも関係がないのではないか。絵は個人のものになったのではないか。
美術評論というものが失われた時代だ。自称評論家などという人もいない訳ではないが、その人の絵の感想文は読んだとしても、美術評論を読んだことがない。先日、21世紀美術館の図書館で、絵画関係の冊子を読んで確認した。絵描きを食い物にした、宣伝紙のような評論を装う美術館の出版物はあるが、つぎの時代の絵画の意味を模索するような評論というものは読んだことがない。絵画が芸術としては成立していないという事なのだろう。芸術として成立するとは、社会への影響があるとか、社会からの影響を美術が受けるというものがあるはずだ。とすると、自分が描くという意味を自分自身が深める以外に道はない。一人でやればいいだろうという事だが、修行というものは、一人でやるのは危険なのだ。禅宗でも座禅を一人ではやってはならないとされている。修業が本気であればあるほど、一人でやると危険なもののとされている。その絵を描く修行の場が、絵を語る会である。語ってどうなるものでもないのだが、語ることで自分自身が自覚することもある。まだ、語る場や方法が見つかったわけではないが、みんなでそこから摸索しようという場にはなっている。興味のある人は参加してみてもらいたい。水彩人展では10月2日朝から行う予定である。