水彩画の色彩の事
水彩人では20回展記念画集を作った。色彩という事を共通のテーマにしたものである。それぞれの絵を色ごとに分けた。私は緑である。色分けはそうかなというものもあるが、本人の希望でわけてある。最初はおかしなやり方だと思っていたが、出版社側の意図なので、それを受け入れてすすめられた。そして色に関するコメントを書くという事になった。色のことを特別に考えることもなかったのだが、無理に考えさせられている内に、色の意味には2通りあると自覚した。絵の画面上の色と、目に移る色とは違うという事である。画面上で見ている色は観念のようなものに近い。頭の中思考も言葉で行っているのだが、書き出して文字化したものとは異なる。この2つの違いのようなものが、見ている色と描いている色との間にはある。この違いがほとんどない人もいれば、大きく違う人もいるらしい。描く色は頭の中の色彩の方に近い。この頭の中の色を画面の中に紡いでいるようなことが、描いているという事のようだ。私は、目に入る色と頭の中の色との関係に混乱しているらしい。このことが整理できたのは、画集を作ったからのようだ。有難いことだ。
田んぼの色を心配しながら本気で見ている。毎日朝晩微妙な稲の葉色を判断しようとしている。ここで稲の葉色を見るというのは絵を描くときに色の見方とは全く違う。緑色の濃さで、イネの根の活力を見ている。イネは田植えが終わり、徐々に緑の濃さを増してゆく。イネは15枚の葉が出る。その10枚目の葉が出る頃から13枚目当たりの葉が出る頃までが一番緑が濃い。この間の緑の濃さの変化が栽培の上でとても重要なことになる。色味版というものがあって、それでは色を5とか、4とか判断する。デジタル的に一枚の葉色を判断する道具もある。そうした一枚の葉の色という事と、田んぼ全体の緑の濃さという事の違いがある。つまり一枚の葉が一筆の線のようなものだとして、線の密度で色彩も変わってくる。葉の数が多ければ田んぼ全体では濃く見える。または幅が太ければ、色が濃く見える。このあたりが実に複雑で微妙で、面白い。
田んぼの葉色を見ているという事は、実は田んぼの土壌の様子を見ているという事になる。土壌は実際には見ることができないものである、見えないけれど栽培上最も重要なものである。その為に葉色に表れる土壌の状態を想像することになる。良い土壌であるか。良い土壌とは良い発酵型の土壌である。腐敗型の土壌になっていないという事である。肥料分が適度であり、腐植質が豊富という事になる。そうした土壌の反映として、同じ緑の濃さでも、黒ずんだ緑のこともあれば、切れの良い澄んだ緑のこともある。一時間ぐらい眺めていてもまだ時間がが足りないほど、見ることが様々ある。例えば、写真のようになぜ少し緑が黄色に変わっている部分がある。これは何故だろうなどと考える訳だ。この色のさめ方は田んぼの耕運のやり方で現れたものだ。そうしたことが起こる理由も複雑なのだが、理由が分かれば田んぼの耕作が達人という事になる。
田んぼの緑を本気で見ている。すると見やすい光があることに気づく。晴れた日は見やすいかと言えばそうではない。太陽はない方が色は見やすい。曇りの日の方が正確に色を判断できる。絵ではどうだろうとここで絵を描く目になる。すると、絵を描く目が見る色彩というものがまるで違うのに驚く。田んぼのか持ち出す空気の方を見ている。色そのものではなく、色や形や、意味が作り出す世界を見るための材料の色という事になる。緑が4であるか、5であるかなどという分析的な色とは違う世界の話になっている。ここでの色は記憶の色との繋がりであったり。自分の気持ちに適合する色彩という事になったりしている。回りくどく言えば、色というものが作り出す意味的なものと、自分の田んぼの世界観との適合という事なのだろうか。しかし、4、であるか。5、であるか。という眼がその根底にある。だからと言って、4を描いたり、5を描いたりするわけではない。