大豆の会のはじまりまでーー4

   

あしがら平野の何処に暮らしていても、田んぼをやってみたいという人が、自転車で行けるぐらいの場所に、参加できる田んぼを作ろうと考えた。田んぼをやりたいという人が、少しづつ集まり、年にひとつづつ田んぼが増えていった。当初10か所ぐらいの田んぼが必要だと考えていた。味噌の会は当初は料理の会の中の一つの活動だった。そのころの農の会は面白そうなことは何でもやっていた。当時の料理の会の説明文を読んでみると、ーーー料理の会は「地場の旬の農産物を畑から」の視点で、料理として伝えてゆく会です。味噌づくり、蕎麦打ち、あしがらの郷土料理、麹作り、野菜のフルコース等が行われてきました。2ヵ月に1回の開催。と書かれている。農の会としては味噌の仕込みよりも麹造りの方が先だった。どぶろくづくりの為に、千田さんの指導で福沢のお寺で何度か麹づくりを行った。私は一帆さんの味噌づくりに参加していたので、田んぼの仲間の中で、自分たちでも味噌を作ってみようという事になった。千田さんから大豆を分けてもらって始めたのではなかったかと思う。小田原に来た前後なので、2000年ころかと思う。

しかし、農の会を展開してゆくには、山北では難しいのではないかという事もあって、小田原に移住することになる。それだけでなく他にもいろいろ重なり、小田原久野に移住する。小田原に移るころから、農の会のメンバーも一気に増加してきた。こうしてかかわる農地が増えてゆくうちに、農の会に借りて欲しいという農地も出るようになる。耕作放棄地を管理してゆくという事が、弱いところを作らないという農の会の目的と考えていたので、頼まれた農地は何とか引き受けようと考えた。それが味噌の会で大豆づくりを始めたスタートだったと思う。永塚で大豆を作ったのではなかったか。その後西大友に移る。最初は味噌の会だったものが、ここで大豆の会に名称が変わった。調べると2006年の事のようだ。大豆の会の中心で活動してくれたのは、中原さんである。中原さんは菜根淡というお店をやられていた伊藤シェフの所で働いて居る方だった。卵を菜根譚に卸していたのだ。中原さんと結婚した美保さんが菜根譚で働いていて知りあいになった。

中原さんの登場で大豆の会は変わってゆく。農の会はいつもそうだったのだが、一人の人が現れることで、新しい活動が生まれる。一人の人が去ることで、活動が変わる。中原さんはとても管理能力の高い人だった。いつも冷静で粘り強い人だった。一人で大豆づくりから、味噌づくりまで軽々と担ってくれていた。しかし、味噌の会も大きくなり過ぎたこともあり、山北グループや生産者の人は離れた。それは中原さんの方針でもあった。中原さんは味噌の会を大豆の会という名前に変えることも良くないと言われていた。大豆の会では大きすぎるとよく言われていた。味噌づくりの会場も私の家から、梅の里みのり館で行われるようになった。そして、稲わらが庭に落ちていたという事で、汚した、汚さないのもめ事が起こり、旭ブルベリー園に変わり行うようになる。そして昨年は機械小屋で行った。その大豆の会を一人でまとめ上げた中原さんは今は奈良の方に移住して農業を続けている。

この地域で最初にみんなで作る味噌づくりを始めたのは島田啓介さんである。今も、伊勢原の方で続けている。直接的には農の会の味噌づくりではない。島田さんは有機農産物の引き売りをしていた。島田さんの企画に参加させてもらったのが初めての経験だ。島田さんは一帆という引き売りをしていて、私の卵も販売してくれていた。その一帆の引き売りは「はるのき」というレストランを今されているミホさんが引き継いでやった。味噌づくりもミホさんが引き続き行っていた。場所は南足柄の内山である。家の前の田んぼでやっていた。それに参加させてもらったのがみんなで作る味噌づくりだった。味噌は一人で作るより、みんなで作る方が合理的だという事を経験した。子供の頃の家の味噌づくりを思い出したわけだ。農の会は、地場・旬・自給の考えかたをしていたので、自分で栽培した大豆で味噌づくりをやりたくなった。最初は生産者の大豆を購入した記憶がある。農の会として大豆を栽培するようになる。大豆づくりも様々工夫を重ね、収量も反収200キロは超えるようになった。

 - 自給