石垣島への引っ越し準備

   

家を建てる予定地。お隣に見える建物は酒造会社の古酒寝かせている建物。クウス好きとしては、ご縁ということか。

養鶏業の引退は65歳と決めていた。一年遅れて66歳で引退した。そして、農業の引退は70歳と決めている。70歳を超えて農業をするようなことは自分の生き方としては違うと思っている。農業は体を酷使する仕事だから、70歳で終わりにしたい。後は絵を描くことにしても、許されるだろう。誰が許してくれるのだろう。やはり私自身が納得できるということだろう。農業から引退するという事は、あしがら農の会を離れるという事でもある。石垣島に引っ越しをする。先日の新年会では田んぼの仲間にはそのことを話した。今までブログの中でもそのことには触れないできたが、もう書いても良いかなと思う。やっと仲間に告げたからだ。まだ2年先のことになる。それまでの2年間は全力で農の会のことをやろうと思っている。一つは原発の事故はあしがら農の会にどの様に受け止めたか。このことを記録に残すことになった。東電の賠償請求はやめることになった。ただ原発事故で農の会に何が起きたのかは記録しておく必要があるという意見が出た。

雨に煙る平得付近。ヒラエと読むのだそうだ。

そして田んぼのまとめである。自給のための田んぼのやり方を本にして記録を残したい。自給のための田んぼは農業の田んぼとは違うやり方が多いい。20年間手さぐりで探したやり方だ。これを記録して、次に始める人の参考になるものにしておきたい。自給の田んぼは有機農業で行う。それは有機農業の方が優れた農法だからだ。有機農業で畝どりできる技術が確立できている。ただし手間暇がかかる。そのためには協同をしなくてはならない。5家族が1反で行い、600キロ取り、120キロづつ分けることが出来る。15家族ならば、3反の田んぼで1800キロ収穫する。3反の田んぼになれば、かなり労働時間は削減できる。一日1時間、年365時間で自給する農業の姿を、記録してまとめたい。家庭菜園が主食に及ばないのでは、自給生活とは言えない。あしがら農の会という仲間がいたからできたことである。農の会の25年間の記録でもある。

野菜などの畑の作物に関しては畑の会が発展して、小田原有機農業市民塾という形でやることになった。すでに畑の準備は始まった。これも2年間で何とか形にしたい。共同できることを徹底する。どれくらい自給の畑が時間がかかるものか、まとめたいと思っている。一人でやるほうが気楽でよいに決まっている。特にこの時代に農業をやろうという人間は、少数の特殊な人と考えたほうがいい。どちらかといえば人と協調する能力に欠けている。そうした人が、畑で共同するということで、この末期の競争社会の中で、独自の人間関係を見つけられるかもしれない。自分たちの仲間を見つけられなければ日々楽しい。人間として生きられない社会が近づいている。競争ですり減らされた神経のために、人と助け合うということが下手になっている。その回復のためにも自給農業の共同作業を見つけたい。これがあと2年の仕事ではないかと思っている。2年で必ず実現するつもりだ。そこまで行けば私は消えたほうがいいと思っている。

そして2年後には石垣に越す。といっても、今も頻繁に石垣に来ているのだから、それほど今と変わらないのかもしれない。今度は3月初めに来るつもりだ。2地域居住ということになる可能性もないとは言えない。小田原の家の片付け方がうまく行くかである。私としてはさまざまなけじめとして、石垣の暮らしを選択する。2年先のことだし、やってみなければわからないところもまだある。今のところでは10月には家はできる予定である。と言いながらもまだ本当に出来るのかどうか半信半疑である。子供のころは東京都の家と、山梨の藤垈の家との行き来は1日かかる大旅行であった。今は石垣と小田原でも半日仕事である。慣れてきたら、別段遠くまで来ているような気はしていない。天国にいちばん近い島石垣島。絵を描けば描くほど、そのことが確信出来てきた。少し絵が変わってきたようだ。さあ、もう少しで明るくなる。

 - 石垣島