鳥インフルエンザの真実
東山動植物園は20日、飼育する鳥が鳥インフルエンザに感染した場合、別の施設に隔離できれば、原則は殺処分とせずに治療する対応マニュアルを決めた。
長い時間がかかった。ついに私の主張の正しさを認める動物園が現れた。正しいことは何を言われても主張し続けなければならない。やっと鳥インフルエンザに対する科学的な正しい対応策を公的機関でもやっととるようになった。時間がかかったが、良い方針転換である。誤りをあらたむるに恥ずることはない。どれほど貴重な鳥がこの悪法で殺されたことか。現在でも鳥インフルエンザに感染した家禽は、同じ養鶏場にいる鶏すべてが、健康であろうとも殺処分されることに法律でなっている。この愚かな対応に抗議することがこのブログの初期の目的であった。10年以上の年月がかかり、やっと正される方向が見えてきた。家禽類はまだ殺処分が強制化されている。こんな非科学的な対応がされていたという愚かしさが、必ず反省される時代ががくるはずである。現状の鳥インフルエンザに対する科学的な対応が行われていない。社会的な恐怖心を煽った政府や報道機関。
人間のインフルエンザと名前が同じがために、悪用されたのだ。現在の偏見を作り出しているのは宗教ではなく、経済である。経済が目を曇らせて、自然の姿を冷静に見ることを忘れたのだ。鶏は自然界で、何百万年もワクチンなぞなく生き抜いてきたのだ。その姿の中にこそ真実はある。間違った鳥インフルエンザ対応の為に、日本の鶏文化は今消滅の危機に陥っている。動物園では家禽を飼うという事を控えている。学校でも同じく鶏を飼うという事はない。鶏の品評会というものも行われなくなった。鶏を集めるという行為自体が禁止された状態である。すべては鳥インフルエンザに対する無知が原因である。こうして世界に誇るべき日本鶏の文化はほぼ失われつつある。すでに鶏の声が騒音であるという事で、街場では飼えなくなっていた。農村でもよほどの山奥以外では飼えない状況がある。鶏を飼っているという理由で、ときどき警察が見回りに来るような事態では神経的に圧迫されてしまう。鶏を飼うという事が、忌み嫌われる趣味になったのだ。天照大御神の神使は「鶏」とされている。神話の時代から日本人が親しんだ鶏が、似非科学によって消されようとしている。
鶏のことだけなら、大したことはないかもしれない。しかし、この背景にある不安を募らせる社会の根底に、日本の社会の了見の狭さを示されている。些細なことから、不安を増幅させる社会である。付和雷同に一辺倒化する社会。大本営発表をうのみにしてしまう危うい社会性。それは社会が病んでいるという事である。社会全体が神経症的な状態である。ゆったり感がない。余裕が失われている。鳥インフルエンザにおいて、人ひと感染が起こりうるというようなデマが流された。忽ちに世間は不安に満ちて、養鶏場を忌まわしい眼で見るようになった。今は世間はそのことを忘れている。新しい、苛立ちの対象を探して、鵜の目鷹の目である。この時点では大相撲が血祭りになっている。あることないこと騒ぎ立てている。新聞の社説で、貴乃花が批判されているのには驚く。新聞は公的な批判精神を忘れて、個人攻撃をするようなはけ口を求めている。
鳥インフルエンザ騒動の結果、人間の方のワクチンの備蓄が行われるようになった。今年もワクチン不足だというので、大騒ぎである。こうして騒げばまるでワクチンを打たない人間が健康に無神経であるかのような騒ぎだ。ワクチンの効果など一定のものだ。万能の薬などそもそもない。私にはワクチンなど全く不要だ。各々が判断すればよいことだ。似非科学がワクチンを義務的なものとする圧力を社会に蔓延させているのだ。どうもこれが日本だけではないようだ。死ぬことを明らめきれない社会。ここに根本原因がある。人間は必ず死ぬのだ。何らかの理由で、遅かれ早かれ死ぬのだ。すべてはそれまでのことだ。生きている今を十二分に味わう以外に生きるという事は何処にもない。このことを自覚すれば、どこかにはけ口を求めるのでなく、自分自身の納得というものを見つけることになる。