68歳と4か月の希望

   

歳をとって少し良くなったと思う事は根気が良くなったことだ。何しろ毎朝ブログを書き続けられるようになっている。小学生のころはまるで同じことが5分と続けられない落ち着きのない子供だった。10年前までは東京に行く1時間半の時間が耐えがたいものだった。今は当たり前の気分で乗っていられる。鈍くなったという事なのだろうが、考えようによっては粘り強くなったという事でもある。豆の選別のような単調な作業でも、我慢ができるようになった。単調な作業の意味が理解できて、味わえるようになったのかもしれない。どの作業の意味も前より理解できるようになった。理解した上で作業計画を立てるので、無駄な労力は使わなくなった。今年は草刈りをしようと思っても、草刈りが遅れた。草刈りぐらいならまだしも、絵を描く意欲はどうなのだろうかと思う。しばらく絵を描かないでいた。描きたくならなければ描かないことにしているので、1か月ほど絵を描いて居なかった。何かをやりたいという気持ちが衰えるというのも歳をとるという事なのかもしれない。12月に入り年賀状を描きだした。今度は絵を描く気持ちに入り込みほかのことが出来なくなった。

田んぼが一段落つくまで、頭がそれで一杯という事があった。常に気になっていることがあるという状態では、絵を描く気にはなれない。今年の田んぼの終盤は厳しいものがあった。絵を描くというのは全く他にやることのない状態が良い。こういう状態は歳をとると可能になる。ただ、たいていの絵描きは年齢とともに衰える。暇になると、それっきりになって弱い絵になる。地域の世間的な役割はお断りできる。一通りは役目が終わったと言い訳が通る。それで畑と田んぼなのだが、今年は田んぼに気持ちを入れた。今年も本気で田んぼがやれたのはつくづく良かった。グタグタしていたのだが、突然、草刈りがやりたくなった。久しぶりのことだ。待っていれば意欲というものは年寄りでもまだ出てくるようだ。身体も動かしていると調子が戻る。調子が戻ればやる気も再燃する。絵もそうだと思う。描きたいところに立てば、描きたくなるに違いない。年賀状が引き金になるとは思っていたのだが、始めると描きたくなるものだ。年賀状は何とか今年も一枚一枚絵を描いている。楽しいものだ。希望者があればメールをくれればどなたにも送る。

子供の頃からやりたい病だと言われていた。何でもかんでもすぐやりたいやりたいという子供だったらしい。自覚はなかったが。普通に面白そうに思う事をやっていたという事ぐらいの記憶しかない。興味が偏っていたかもしれない。絵に関しては何故か描きたくて仕方がないばかりだった。絵を描いて居ては怒られていた。今はどうだか知らないが、絵描きになるなどという事は、忌み嫌われたものだ。私の場合勝手に、絵を描くことが素晴らしいことだと思い込んでいた。子供の頃ほど、ただただ素晴らしいとまでは思わなっている。思う絵が描けるという事がまずないからだ。ほどほどでいる生煮え状態は辛いものだ。絵で出来ることはあるのだろうかなど、迷いの日々だ。それでも絵を描きたくなる。この描きたくなるという気分が面白いもんだと思う。これはまだ衰えない。そして、最近になって、少し絵が分かったようになったことがある。

いい絵を描きたいというようなことよりも、自分という人間を確認したい。こういうことが人間の最後の仕事ではないだろうか。絵を描くという事で自分というものが確認できるかもしれない。歳をとるという事は先が少なくなったという事だ。結論を出す時間が刻々迫っている。すべての人が死ぬときが結論である。大したものであれ、ささやかなものであれ、自分という人間の命があと3年なら3年で結論を出さざる得ない。自分では出せないとしても、命が尽きるという事は、否が応でもはたから見ればそれが中途半端であろうとも結論である。何にもわからないものだというのもあるだろうし、こんなものかということもありそうだ。死ぬつもりで残りの時間を生きなければならない。その残り時間が見えてきたというのが年を取った有難さかもしれない。まあ悲しい有難さであるのだろうが、生きるという事の悲しさをしみじみ味わえるというのも年寄りの特権かもしれない。どう見えるようになるか。そして、何を制作できるのか。このことは改めて書いてみたい。

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