喜寿糯の脱穀

   

脱穀の終わった欠ノ上田んぼ。残っているのは岡本さんの田んぼ。手前は冬季湛水の田んぼで、すでに水を入れた。

10月18日欠ノ上田んぼ喜寿糯5畝を脱穀した。稲刈りは10月9日に行った。サトジマンの脱穀に併せて稲刈りをした。そのご10日間の間に数日しか晴れ間がなく、この後も雨が降り続くという天気予報である。22日には台風も来る可能性があるという事態に追い込まれた。もう脱穀のやれる日はない。この絶望的とも思える緊急事態の中で、希望の太陽が差し込んだ。17日の午後から雨が上がり天気の回復が見込める。18日は朝から晴になるという天気予報が出た。ここしかないと、天気予報をにらみながら決断した。16日に緊急にみんなに連絡をした。18日の午後2時からであれば、脱穀が唯一可能な時間が来るかもしれない。来れる人がいれば何とか可能かもしれない。このわずかな晴れ間以外にチャンスはない。みんなの願いによって千載一遇の時間を与えられた。

16日には奇跡のように雨が上がった。17日には強い陽射しが朝から刺した。乾燥気味の良い風も吹いた。天気の読みが外れて、迷惑をかけるかもしれない。祈るような気持であった。もしこの時間を逃せば、もち米の収穫はほぼ不可能になる。穂発芽も始まる気配がある。何とかできそうな天気になった。祈りが通じた。人がどれほど集まれるかである。人が多くなれば、2台のハーベスターも使える。なんと12人の人が、集まってくれた。東京から参加してくれている若い杉山さんまで駆けつけてくれた。有難さで何とも言えない思いになった。こうして2時から5時までひたすら脱穀を行った。機械は危ういところであったが、何とかしのいでまだ明るいうちの5時に脱穀を終えることができた。この感激と感謝は尽きることがない。良い仲間がいるからできたことだ。今の世の中でこんな素晴らしい仲間を持てるなどという事は、田んぼをやっているからだ。

田んぼの共同作業というものは昔の日本では普通のことだ。実は雨と風の為に1か所のはざがけは折れて倒れた。これを、田んぼ仲間の吉宮さんが雨の中、救出してくれていた。こうした仲間の力の助けで田んぼは出来ている。これが共同というものだろう。お米は機械小屋の中に広げて、風を当ててある。さすがに5%ぐらい無駄にしまうような籾摺りではあったが、何とか、かんとか、しのいで300キロ近いもち米が取れたのではないだろうか。一時は収穫をあきらめかけたもち米であったが、何とかみんなの力を合わせて、収穫にこぎつけた。お米への感謝が湧いてくる。この一年の努力した仲間への感謝。そして多分400年前にこの地に田んぼを開いた人への感謝。山を貫く水路を作ってくれた人への感謝。自然への感謝。これが瑞穂の国の日本人なのだと思う。助け合わなければ生きることのできない時代をくぐりぬけて日本人は生まれた。稲作によって日本人は出来上がった。

言葉では美しい瑞穂の国という事は誰でもが知っている。しかし、それを身に染みるように知るためには、そのお米を食べて生きてみない限り身に染みては分からない。ひたすらな思いを体感しない限り分からないことだと思う。この仲間全体の祈りの気持ちを絵にしてみたいと思う。そういう田んぼの絵を描いて見たいと思う。それが私が描く方角の絵のような気がする。中川一政先生の絵を見て、その翌日にこの体験をしてわかったことなのかもしれない。それがやった人間にしか見えてこない田んぼの美しさなのかもしれない。それは絵以外では表わせないものかもしれない。機械小屋にあるもち米は、扇風機の強い風を当てて交代でかき回している。まだ水分量は高いが、少しづつ下がっているようだ。稲刈りが少し早かったのかもしれない。

 

 

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