わたくし絵画の意味
石垣島の道 制作途中 中盤全紙 こちらはたて構図、どうなんだろう。なぜ絵は縦と横があるのだろう。
自分の絵を深めるために一番障害になっているものが、頭の中にある自分の絵である。自分が必死の努力の末到達したと考えている世界が、新しい世界に進むことを阻害する。自分が作ったと考える世界が邪魔をする。自分が自分を縛ることになる。安井賞受賞作家で作家になった人は2人くらいのものだ。その二人は、安井賞を受賞した時代の絵とはまったく違う絵を描くようになった人である。若いうち評価されるという事は、絵を描くものにとっていかに危険なことかと思わざる得ない。幸いというか、不幸にもというか、私は全く評価をされたことがないので、過去の絵にしがみ付くようなことだけはしないで済んだ。しがみ付きはしない。むしろ否定しようとしてきたのだが、それでも絵を描けば、自分の絵というものが立現れる。この表れてしまうものは自分の感覚であり、自分の観念なのだろうとおもう。それが新しい世界に自分を進めることの障害である自覚がある。
それまでの自分という人間が自分を邪魔している。自己否定という意味で始末に負えないのだ。その現状の自分というものの上に自分の絵を積み上げようとしている。ついつい今までの自分ではダメだと思いながらも、どこかで評価をして、その上積みを狙おうというような浅ましいことになる。自分をやり尽くすためには、今の自分をどう否定するか。それ以外に道はない。今までの自分でいいなら、何も絵を描く必要もない。未だかつてない自分に至るために絵を描いて居るはずだ。それを邪魔しているのが自分という我である。これは個性主義の先入観ではないかと思っている。個性的であれというような、訳の分からないまま刷り込まれた価値観がいつの間にか自分の道を閉ざしている。自分らしいというように一見見えるものに、一番自分が影響を受けてしまう。人と違おうが、同じであろうが、どうでもいいことのはずだ。
絵の進歩には自分と思い込んだ何かこそ危険だと考えるようになった。自分をやり尽くすためには、自分というこびりついたものから、柔軟になれるかである。今までこうやって描いて居たという事を、描くたびに消去できるかである。これができる人が本物の絵に近づける人だ。長年描いて来た人間が初めて絵筆をとったような気持で、画面に向えるかである。いつものやり方などではなくやれるかである。自分でも何故こういう絵を描いたのかわからないようなことがやれるかである。全く、意味不明な自分の絵に耐えられるかである。絵は自分の描く意思を超えている。思わず新しい世界に抜け出るようなものだ。絵は人と自分との間にある。自分の中にある訳ではない。絵を描き始めるときにどこに行くかが全く分からないような、自由な精神に至れるかである。良い絵とか、名画とか、好きな絵とか、好きな色とか、そういう絵の前提になるようなものを一切払しょくできるかである。そしてゼロになって画面に向かい合えるかである。
ゼロの世界から生まれてきた。ゼロの世界に戻ってゆく。生きている自分というものが、今ゼロの場に立ち、何を描くかである。そんなことは不可能であろう。不可能であるのは承知で、そういう事を思う。それでなければ自分の奥底の絵には至れないと思う。「いつも何度でも」という歌を1000回くらいは唄ってそういう事を考えた。心が柔軟であるという事だけが、前進できる方法である。かつて獲得したというものの意識が新しい発見を阻害する。成功体験が前進を阻む。出来ないと思う先に、何かがある。田んぼならごく当たり前のことだが、絵を描く時にそれが分からなくなる。ついつい、いつものやり方を繰り返している。これが前進を阻んでいるのだ。絵を描くという事は職人仕事から最も遠くにあるものだのだ。職人と絵描きは似ているので間違いやすい。絵を描くという事は何かの完成を目指し、磨きあげてゆくようなものではないのだ。どう本当の自分を味わうかの発見の旅だ。その為には今の自分という存在をゼロにして立ち向かわなくてはならないと、改めて思う。