日本の自然宗教 5
日本精神史 阿満利麿 著を読んでの感想である。ずいぶん長いブログの文章になったのは、有権者がアベ政権を支持してしまう、今の政治状況をいろいろ考えながら読んでいたからなのかと思う。阿満氏は法然の絶対凡夫の思想というような考えから、日本人の自然宗教を否定しなければならないものと考えているようだ。日本人の中にある自然宗教の影響がアベ政権に従ってしまうお上意識にもなっている、と考えていいのかもしれない。そうかもしれないと思うが、むしろ日本の自然宗教というものは乗り越えると、言うような何とかなるものでなく、事実を確認すべき様なことと私は考えている。科学的に日本人を分析する上での要素という事である。日本人にはこうした自然宗教の民俗性がある。という形で分析する以外にないことだと思う。日本人が人と挨拶をするときに何故頭を下げるようになったのかというような歴史的分析、というようなことに近いことだと思う。
日本人はそうした民族性を深く自覚はしなくてはならないことは確かだ。しかし、それは否定するべきものというより、未来に生かす方法を考えなくてはならない性格のことだ。絵を描くときにより日本人に入り込むことこそ、世界にとって意味あるものになるのだと思う。日本人が宗教的ではない民族であるのは、良いことだと私は思っている。公明党が創価学会を背景に政治の分野で、ご都合主義の悪い動きをしている。アベ政権に対して、現世利益と引き換えにすべて従っているように見える。そうでないというなら、平和の党の安心とはどういうものなのか政策として示してもらいたいものだ。そして創価学会員は、教祖の言葉をどのように聞いているのだろうか。これが日本の自然宗教の影響だとは私には見えない。教祖の池田氏は平和主義者ではないと考えた方が良いのだろうか。こういう政治理念のない宗教の形が、民主主義に最も悪い影響を与える。日本の宗教が政治と関係してよかったことはない。日本人の民族性は政治と宗教と上手くかかわれない関係なのではなかろうか。
日本の宗教は戦争に加担した。その反省が不足している。それは自然宗教の影響というより、日本の宗教が既得権益団体化しているからだ。その教団の繫栄の為には、宗教としての教義すら、軽んじて恥じるところがない。自民党総裁が主張する憲法9条の改定に対して明確に教団として反対しているところはあるのだろうか。お上の意思を忖度するのが得意なのが宗教組織のように見えて仕方がない。法然や親鸞が提唱した浄土宗がどの宗教よりも、寺院も衣装も絢爛豪華である。日本人にはまれなほど派手な姿である。それが凡夫の姿というものなのだろうか。私は悟りを目指す曹洞宗の僧侶ではあるが、生涯凡夫だろうと思う。悟りなど開ける感じもない。しかし、自給に生きること、絵を描くという事を自分の道として、取り組み続けるつもりだ。それは悟りを開くためというのでなく、そうしたいという思いだけだ。
日本人は3000年の稲作農業を続けることで日本人を形成した。それが日本人の精神史の根本にある。このことを考えない限り日本人の精神史は明確にならないのではないだろうか。何故天皇が天皇として存在しているのか。この独特な近代国家を生んだ原因も見えてこないだろう。政府に従ってしまう日本人が形成された理由は、江戸幕府の統治手法と、明治帝国主義にあるのではないだろうか。1500年も学んだ仏教もそれほど精神史に影響があったとは思えない。日本人の自然宗教というべき体質が、こういう国を作り出した。神や仏は実は死んだ祖先のことでる。仏さまと言う言葉はむしろ死んだ人のことの印象が先である。お釈迦様でも阿弥陀仏でもない。ここに抜き差しならぬ日本人がいる。そして、稲作を止め、地域に根付いた暮らしが失われた現状。日本人の精神は危ういところに来ていることは間違いがない。