トイレの絵

   

トイレには自分の絵が2枚置いてある。トイレの絵だというのは絵の悪口のように使われることがある。しかし絵には美術館にあるべき絵もあるが、暮らしの中にある方が良い絵もある。トイレに置かれた方が美術館よりも本領を発揮する絵があるかもしれない。私にとって絵が置かれている良い場所は、案外トイレぐらいかもしれない。絵を飾って鑑賞している訳ではない。一歩前進のきっかけをつかみたいから掛けてある。案外トイレは絵の問題点を気づく場所なのだ。家中至る所に絵があるから、何処だからという事でもないのかもしれないが、トイレは意外に頭が働く。トイレで初めて気づいたこともある。絵を見続けていてやっとわかることもあるし、偶然見て、つまり絵だとも思わないで見て、気づくこともある。壁のシミを名画だと思って鑑賞してしまい驚くことさえある。窓からの木々が絵のようで、今見た絵よりましだなと、北の丸公園の近代美術館で何度か思ったことがある。

絵は常に、現場で始まる。畑、田んぼ、庭の作業中だ。絵を描くつもりではなく、何か他のことをしているときに、急に絵になる何かが湧いて来ることがある。それを自分の中で温めておく。それがいざ絵を描くときに、出現することがある。車で描きたい場所に描きにゆき、窓から見ながら描く。庭を描くときは家の中から眺めて描く。これは、風景を見る手立てである。そとに立つとその現場に巻き込まれ過ぎて、冷静に絵が描けない。だいたい1枚の絵で2時間ほど描く。それで出来上がることはない。またその場所に戻り、描いて見る。同じ場所を何十枚も描いて居るのに、必ず違う絵になる。違う場所で描いた絵を、違う場所の風景を見ながら描くこともある。そしてもうどうにもこうにも進まなくなる。そして大抵は終わりになる。捨てるわけではない。そして家のどこかにかけておく。その続きが描蹴るときが来るかもしれないと待っている。全部をかけて置けないので、引き出しの中にしまっておく絵もたくさんある。

絵を時に取り出してみる。何十枚の中から、これは続きが描けるという絵が出てくる。それをアトリエの壁に並べておく。それでも続きがすぐ描ける訳でもない。また、現場に持って行って描いて見る。そしてある時期になると、急に仕上げるぞというような気持が湧いて来る。仕上げるというのがどういうのかわからないが、終わりまでやってみようと思うことになる。いつも描いて居るのは描きだしているのであって、結論を出そうとか、何か具体的なことに向っているのでもない。書き出しで終わる絵もあるし、結論までは行けないものだ。今、トイレにかけてある絵は、神田日勝美術館に出した、富士山の絵。もう一枚は一枚の繪の小品展に出した富士山の絵。両方とも今ならば描かない絵だ。自分の絵が変わってきていることを毎日教えられるので、そのままにしてある。発表した絵なのだから、その時の自分には精一杯のものだったのだろう。今見てみると描こうとしていることがじつに曖昧である。富士山という美しい風景を絵にしているにすぎない。

今は描こうとするものは、この頃よりは具体化してきたようだ。先日も篠窪からの富士山をたまたま描いた。今篠窪は菜の花と富士で人だかりができるほどだ。確かに美しい。富士山の絵が、風呂屋の看板絵のようだから描かないという訳ではない。ただ、人が美しく見えるように景色として作りあげているものは、何か不調和がある。菜の花が、油をとるためのものなら、また違って見えるかもしれない。ただ観光客を呼ぶために、美しいふるさと風景を、景観として作り出している、この違和感のようなものが先行してしまう。そこに暮らしが失われた代わりに、桜や菜の花を植えるという事は、美しいという本質には近づかないという事ではないか。少なくとも絵に描くべき美しさはそういうものではない。トイレの絵を見て、そういう事に気づくわけだ。

 

 

 - 水彩画