先制攻撃論の登場
北朝鮮が弾道ミサイル発射や核実験を繰り返していることに対し、自民党内で「敵基地攻撃能力」が必要との主張が相次いでいる。敵基地攻撃能力については四月の自民党国防部会で複数の議員が「検討すべき状況ではないか」と指摘した。三月には今津寛党安全保障調査会長が「撃つ前にたたくことは、当然考えなければならない」と主張。別の党会合でも大塚拓国防部会長らが言及した。自民党内ではたびたび議論が浮上。安倍晋三首相も官房長官だった〇六年に「検討・研究は必要だ」と前向きな考えを示していた。政府は一三年の中期防衛力整備計画で「弾道ミサイル発射手段等に対する対応能力の在り方」に関し「検討の上、必要な措置を講ずる」と盛り込んだ。(東京新聞)
北朝鮮が核弾頭を保有し、いつでも日本に対して核攻撃できる状態である。中国は北朝鮮を外交カードとして利用している。核弾頭が原子力発電所に落とされたら、その時に日本は終末を迎えるだろう。そうした切迫した危機にあることは自覚しなければならない。さらに自民党の考える仮想敵国中国は核武装増強の国家である。最大の核保有国のアメリカは日本の防衛まで請け負えというなら、金を出せと言い始めている。日本にも核武装しろとまで言い始めている。徐々に日本国内でも核武装論が登場している。第2次世界大戦後の世界平和の枠組みが崩れ始めた。軍事力によって、身の安全を守ろうという思想は、軍拡競争になりついには戦争になるという、2度の世界大戦で学んだ平和主義を放棄しようとしている。武力が強い国が、尊重されるという弱肉強食の世界に逆戻りしそうだ。アベ政権の防衛構想の先に有る世界は、核武装した日本である。そこまでゆかなければ、安心できないところに日本の防衛は進もうとしている。
軍事力による安心というものには限界がない。よほどの自制心がなければ、軍事拡張競争になる。資本主義的な経済競争と連動するように、軍事競争が始まっている。もう戦前と呼ばなければならない状況だ。競争の果てに暴発が起こる。人間というものはそういうものである。全ての国家が軍事力など放棄することが理想であることは、誰もが考えるところであろう。しかし、現実には北朝鮮のような新たな核武装国家が登場してくる。イスラム国のような、単なる破壊主義のようなテロ国家も登場する。そうした世界の状態を解決する事は、不可能に見える。不可能であるとすれば、必ず次の大戦争が起こり、核爆弾が投下されることになる。だから、不可能に見えても、どうにかして軍事力の削減の努力をしなければならない。世界の紛争を平和的手段で解決すると宣言した日本国憲法に従い、日本は行動を起こさなければならない。そのためにはまず日本軍事力増強を直ちにやめることだ。アメリカとの軍事同盟もやめることだ。確かにそれは不安で怖いことではある。しかし、軍事競争の果てにある物の怖さに比べればましである。
日本がどれほどの軍事力の強化を行おうと、戦争のリスクを低減することは不可能である。北朝鮮の核ミサイル攻撃を防ぐ為に、先制攻撃を行うという事になる。当然先制攻撃をされないように、核配備を準備しているだろう。北朝鮮にしてみれば座して死を待つよりはと、日本に対して核ミサイルを発射する可能性が高まる。こうした危険を削減するためには、どれほど歯がゆくとも、平和外交で緊張を解きほぐす以外に道はない。平和外交がまだろっこしく、効果は少ないだろう。しかし、その少ない可能性に向かう方がまだ、日本が崩壊する危機から救われる可能性が高いという事になる。平和外交の第一は、自分が攻撃的軍事力を持たないことだ。相手に不安を与えないという事が大切である。そして、日本が攻撃する必要がない国になることだ。それでは日本の尊厳をどう守れるかである。文化力が大切になる。一人一人が文化的に豊かな人間になることだ。
と言っても、これはそれぞれの命の選択であるから、アメリカ人のように武器を持っていなければ安心して暮らせないという人も居る。相手より大きな軍事力の保持が必要という気持ちも尊重する必要がある。銃を持つことの方が怖いと思う人も居る。銃をたまたま持っていたがために、人殺しになる人も居る。ぶち切れして銃の乱射が起こり巻き込まれることもある。それぞれが判断することしかないことだろう。その判断がそれぞれになされ、それを反映する選挙制度によって、国会が構成され、運営されるのであればそれに従うしかないと覚悟している。