大豆の会のはじまりまで--1

   

味噌づくりを始めた頃のことを連載で書いてほしいという事で、書き始めたのだが、やはり私が山北の山の中で開墾生活を始めた頃からを書き起こさないと、味噌づくりを始めた経緯がよく分からないようだ。それは農の会を何故作ったのかという事でもあるのだが。私個人のことで申し訳ないのだが、山北に来た頃のことから書き始めてみる。30代は東京の世田谷学園というところで、美術の講師をしていた。私の出身校でもあった。絵描きになろうと東京で様々に活動をしていた。行き詰まり環境を変えようと東京を離れる決意をする。しかし、世田谷学園を辞めてしまう決断も出来なかった。そこで、世田谷学園に東名高速で通える場所に移住しようと探した。その候補地が山北だった。しばらく山北の山の中をあちこち歩きながら絵を描いて居た。

半年くらい通っている内に、夕刻山北の高速バス停で山の上を見上げると、明かりがついている。次の週に山の上まで歩いて登った。山の上にまで車の通る細い道が続いていて、小笠原プレシジョンという名前の大きな建物があった。会社があるということなら、水もあるし、電気もある、道もある。この辺りなら暮らせそうだなと目を付けた。その翌日学校に行くと、学校の同窓会名簿が出来てきたという。5㎝もある分厚い名簿をひらいてみた。その開いたページに、小笠原プレシジョン・住所は山北とある。奇跡が起こった。あの山北の山の中の建物は同窓生の会社だ。その同窓生はその時の櫻井教務と同学年だった。すぐ聞きに行ってみた。友人だというのでその場で電話をしてくれた。

次の週に山北に絵を描きにゆき、小笠原プレシジョンを訊ねた。山北によく絵を描きに来ていると話すと、何と社長の小笠原さんは世田谷学園の同じ美術部の先輩だった。美術の稲田先生に教えて頂いて自分も絵描きになりたいと思ったこともあった、というのだ。アトリエを作りたいなら協力するよ、と言っていただけた。それから土地探しをした。工場の奥に少し平らな場所を見つけた。なんとなく良さそうな土地に見えた。ここなら気分良く絵が描けそうだというので、地主さんを探して土地を購入を申し入れた。地主さんはランの栽培をされている人だった。当時、私はパフィオペディュラムを熱心に栽培していて、世界蘭会議などにも出品していた。話がとても合った。ラン栽培にはあの山の上はいいはずだと言うので、土地を売ってくれることになる。偶然が続いて、とんとん拍子で話が進んだ。

37歳くらいの時だと思う。山北の山の上に通いながら開墾を始める。東名高速の山北バス停から、20リットルのポリタンクに水を入れて、リュックサックで山を登った。まず物置を買って山の上まで運んでもらった。わずかな平ら地を作り、物置を組み立てた。山北に行けばその一坪ほどの物置に寝泊まりをした。そして杉林を一本づつ切り開いた。そして平地を徐々に広げていった。人力のみの挑戦と決めていたので、シャベルとのこぎりだけである。汗を流す開墾暮らしが東京暮らしの息抜きだった。斜面にブルーシートを張って、下に大きなポリバケツを置いて、水を溜める装置を作った。そんな風に楽しんでいる内に、ふと、この場所で人力だけで、人間は生きることができるのか試したくなった。自給自足というものは人力で実現できるかの実験をしたくなった。そこからやり直さなければ、絵など描けないと思ったのだ。

今回は前段の前段で、まったく味噌づくりに入れず。次回につづく。

 

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