石垣島の梅雨明け
いつもの宮良川の橋の上の場所で、いつものように描いた。田植えが終わり、田んぼが安定したので、石垣に絵を描きに来た。田植えが終わってから、田んぼの毎日いるような状態だった。田んぼが気がかりという事もある。田んぼで絵を描いて居たという事もある。昨年も田んぼが一段落して、同じころに石垣に来た。その時は慰霊の日を西表島で体験した。今回は石垣島だった。石垣は何度描いても新鮮なものがある。石垣の田んぼは今が稲刈りだ。稲穂の輝く色彩が緑濃い林に続いている。これは本土の紅葉の中の実りの秋とは違う景色である。むしろ、本来の稲作の姿を感じる。面白い絵になりそうな気がした。
いつも描く宮良川の場所なのだが右奥にあるのが田んぼである。写真ではなぜか手前が大きく映ってしまうが、実際は田んぼはそう遠くないところにある。左側は元は田んぼだったようだが、現在は牧草地になっている。石垣牛が増加して、牧草地は年々増えているように感じる。川の様子がいかにも自然のままである。こういう川は本土ではまずない。また川の両岸にある農道が何とも言えなく魅力的である。踏み跡がいつか道になる。川にはいくらか空が映っている。然し川でなくとも実は空は、畑にも、田んぼにも、茂みにも映っている。見えるものはすべて同じに映っているという意識がある。
こちらは名蔵湾だ。やはり田んぼ、マングローブと続いている。これは描きだしたところだ。こんな風に描きだしているのだと、自分でも不思議な気がする。出来る限り考えなく描いている。座禅で言う無念無想。全くその時初めて絵筆をとるような気持で始める。もちろん、それはかなわぬことなのだが、ともかくできる限り前提を取り去り、その場の自分というものが見ている世界を、画面に移そうとする。やはり田んぼの様子に惹きつけられる。田んぼを縫うように川があり、マングローブの林に溶け込み、干潟に続く。そして海に静かにとしか言いようがなくつながっている。山、川、海、そして田んぼと人の暮らしが混然と存在する。
この素晴らしい場所が、どうもゴルフ場になる場所と思われる。私がとやかく言う事ではないが、残念である。今更ゴルフであろうか。ゴルフをやるのは、もう安倍晋三氏とトランプぐらいではないだろうか。若い人が車離れと言われる。ゴルフをやるような人は過去の話になる。宮良川の方は自衛隊基地予定地である。残念としか言いようがない。人がどこを目指しているのかという事を考える。石垣は日本で最も日本人が日本人らしく暮らしている場所だと思う。日本最古の人骨が見つかった。3万年、日本人がここで、日本人になるべく生きてきたのだ。日本がこれからどこへ行くのかを考える上で、石垣ほど大切な場所はない。