自分の田んぼを自分で描いている
多分だが、田んぼを描く絵だけは前代未聞、空前絶後であろう。モネは自分の庭を作り、それを描いた。私は自分の田んぼを作り、それを描いている。不思議な感触がある。田んぼは描くに十分に値する深いものがある。作庭も一つの芸術として成立している。人間の暮らす究極の形を求めて茶室が作られる。家というものは暮らしの場である。その家の形を借りながら、茶室という空間を演出し、創造する。この表現された空間とそこで執り行われる茶の湯という世界観は、人間の行為を芸術化したものであろう。人間の食べ物を作る場を来るという意味で、究極の行為が田んぼを作ることではなかろうか。アフタヌンティーとかいうしゃれたものがイギリスにあるらしい。ここに人間性の表現は感じるが、芸術的表現とは違うだろう。中国にも茶の世界はある。そこには流儀や世界観もあるらしいが、日本の茶道ほどの芸術表現に迫ったものではない。しかし、茶道は好かない。流派や家元があるようなものは嫌いだからだ。これが日本の最も悪い慣習である。絵画の世界さえそれに近いものがある。
自分で茶を栽培し、お茶を作り、そしてお茶を飲む。見てみろ、利休。と言いたい。本当の意味で、行為を芸術的行為とするには、そこまでやらなければならないはずだ。まだまだ利休は不徹底である。と書いたが、本当は別のことだとわかっている。それなら、田んぼをやると考えたのが、今やっている田んぼだ。本当は田んぼ道なのかもしれないが、そういう嫌らしいことは言わない。恥ずかしくて考えたくもない。田んぼは自由である。科学的である上に、それぞれの自由度がある。科学であるから自由なのかもしれない。100枚あれば、100通りである。しかも自然と混然一体化している。個人の思惑など、自然の大きさの中では通用しない。こうすればこうなるはずが、そう一筋縄には行かない。自分の科学力の不足もある。自分の体力の不足もある。自分の観察力の不足もある。その不足した自分というものが、ほどほどに反映した結果が田んぼである。この面白さである。どうにもならない絶対の自然を前に、かかわりが持てる嬉しさがある。
この田んぼの意味をどう表現したらいいのかがのゆきつくところが、絵を描くことになる。たぶん他の方法では自分が田んぼをやっている意味を表すことは出来ないことだろう。詩ならできるかと思い。先日あしがら畝取り唄を書いて見た。田んぼへの思いは書いたが田んぼの美しさは書けていない。田んぼには美が存在する。田んぼは鏡である。実に巧みに工作された水鏡である。実在する稲と、そこに移る風景。そして水の底に見え隠れする土壌。まさに水土の世界観。このすごさは田んぼをやっている人間ならわかる。この鏡は自分をも写している。すごいと言っても、大多数の人間にはどうでもよいすごさである。消えてゆくすごさである。移ろい漂い消えてゆく。しかし、確実に稲に反映し、秋には実りを迎える。ここが好きだ。その実りはこの水土にふさわしい結果を残す。5俵の田んぼと、10俵の田んぼは違う水土の様相をしている。2週間目の今の田んぼを見ると、何俵の田んぼかは徳農家なら一目でかわかる。
徳農家の眼で田んぼの絵を描きたい。田んぼという宇宙の精神の表れを描きたい。私の眼は確かに10俵の田んぼがわかる。長年、田んぼをそういう目で見てきて、分かるようになった。その眼で田んぼの絵を描けるかである。自然というものの持つ絶対と、人為としての田んぼとのかかわりが描けるかである。どれほどの写真家でも、田んぼの写真で、7俵の田んぼと10俵の田んぼを、田植え1か月後でも写すことは出来ない。現代農業で田んぼの写真をよく見るが、田んぼの実態は少しも映っていない。しかし、徳農家であれば見ればたちどころにわかる。この違いこそ絵が描くべきことだと思っている。その完全に科学的であるにもかかわらず、写真には写らない世界があるという事。それが絵では描けるかもしれないと言う思い。私には描けるかもしれない。そう思って田んぼの絵を描いている。今日も田んぼを描きにゆく。