絵画で言われる個性的とは

   

絵を描く人も、見る人も比較的簡単に個性的という言葉で感想を述べる。思い出しても個性という観点で絵を見たことがない。個性的であるという価値がよく分からない。ゴッホの絵やマチスの絵は個性的というより独創的という方が的確ではないだろうか。個人の個性を超えた人類の表現だと私には思える。個人的な価値を超え普遍性を獲得している。個性という言葉で芸術作品の評価がされることは少ないと思う。一般に独特であるというようなことを個性的という。しかし、人の絵とは違う絵面であるという事が、必ずしも個性というように呼ぶべきものかどうかについても難しいところだろう。絵は個性の問題として見ない方が良いのかもしれない。あらためて個性という言葉を考えてみる。特に私絵画と個性という問題は重要な観点だと思う。

私絵画がこれからの芸術の方角だと考えている。私絵画は個人の問題として絵画を考えるということになる。人や社会に働きかけるというより、内なる世界の探求として絵を描く。描くことを通して自分とういうものをやり尽くすことを目的とする。人がどうであれ、自分というものの奥底に進めるかどうかという事になる。むしろ、他人の価値観をどこまで捨てられたかという事が大切なのではなかろうか。自分を探求しているつもりが、人が作り出した価値観をなぞることで安直な評価が得られる。鶴太郎氏の絵は物まねタレントが良い絵をまねた事例だと思う。世間で評価されている日本の美術は、大半が真似であり、新たな独創を求めるような人はまれである。その為に個性的であるという事が芸術の方向と間違った時代があるのではないか。マチスやゴッホには人とは違いたいとか、人と違うところを強調して、個性を浮き上がらせようなどという意識は全くない。自分というものをどこまでも突き詰めたのだろう。マチスやゴッホというすごい才能の存在には、その自分が実は人類でもあった。

個性を伸ばすということが、人と違う価値を探すことに取り違えるのは、競争主義の影響である。人とは違い際立つという事に意味が有るのは、商品絵画としての側面だ。人と同じであろうがなかろうが、自分をやり尽くす上では関係がない。だから絵を描くうえで、個別性という事よりも、人の価値観の何処まで拭い去れるか、という事なのではないか。個性的であるということで作品評かをするようになったのは、大正自由主義教育の影響ではないだろうか。学校の美術教育の影響なのではないだろうか。個性尊重とか、個性を伸ばす教育で美術教育が役立つ。山本鼎が主張した自由画教育運動では主張された。主に小学校で版画の制作が行われた。教育の道具としての美術という事になる。芸術としての絵画のための教育というより、自立した自由な魂を持った人間に成る為の、美術教育である。そこから絵画が個性的であるという事が価値があるかのように、少し違う意味で理解されたのではないだろうか。絵が人と変わっているという事が意味が有るなどという事は全くない。

絵を人の為に、あるいは社会のため、宗教のため、国家のために描くという時代もあった。それが生活の為、生計のため、名誉のためという時代もあるのだろう。そして、対極に描く行為そのものが目的になり、自分の為に、自分に向って描くという事が出てきている。それは絵画が社会的な存在としての意味を失った結果でもある。小説なども同じ流れにあるように見える。特に変わった画題を選んで描くことで、目立とうなど言う精神は、絵画とは全く関係のない問題である。コンクールや公募展ではそういう評価を引きずっているのかもしれないが、その辺のことは私はよく知らない。絵を描くというものは社会に関係しないという意味で、独善と呼ばれ手も仕方がないものだろう。絵を描くという事が社会の為にも、人の為にもとことんならないという覚悟も必要ではないかと思っている。

 

 - 水彩画