絵を描くことの意味

   

絵を描くことは、自分が生きる事のやり尽くす思いのようだ。絵を描くことが好きだという事に尽きるのだが、その好きだという事は、囲碁や将棋が好きだとは少し違う。田んぼをやるのも好きなのだが、それとも少し違う。この少しの違いが私には大切。水彩画は芸術だから突き詰めたいのだ。では芸術とは何かという事になる。芸術は農業より奥が深い。芸術は囲碁よりも奥が深い。坂田栄男さんという人が、30年前の映像の中で、囲碁は芸術だと語られていた。囲碁ソフトに人が勝てなくなった時点で、囲碁を芸術とは発言できないだろう。囲碁ソフトが人間が見れば、思いもつかない手をあみ出すとしても、それは機械的なことで、芸術とは言えない。芸術とは人間が作り出したものが、人間の魂に影響を与え、人間を変えてゆくものだ。絵画は社会的な芸術としての力は失われたかに見える。しかし、個人の人間のかかわりという事になると、絵画は深い可能性を秘めているように思う。芸術は自分の底にまでたどり着く深い道だと考えている。

囲碁の芸術は人間の発想の限界の先にあるような世界を芸術と呼んでいたのだろう。囲碁で最近、コンピューターソフト同士の対決の解説を見た。その勝負は人間より強い者同士が、ソフト独特の発想で戦っているのだ。そのソフトのゲームをプロ棋士が感動したと解説しているのである。その戦いの世界がどうも人間の発想を超えているらしいのだ。囲碁は芸術とはかけ離れたものになったと思った。どれほど人間の発想を超えた構想力をソフトが示したとしても、あくまで機械だ。これから、どの分野においても人間を超えたコンピューターが人間とかかわってくるはずだ。音楽ではすでに、コンピュターの音楽家が作曲した曲というものがあるそうだ。過去の音楽記憶して、統合して、人間が感動する音楽とは何かを分析して、新たな曲を作り出す。将来はその時々の私に適合する音楽をたちどころに、提供してくれるようになるのかもしれない。

水彩画も方法論で出来ている絵画は、機械が描く絵と変わらない。まあそういう必要も需要もないだろうから、時間はかかるかもしれないが、100年後はそういう操作をする人が現れ、ベラスケスの手法で自画像を描いて見た。というようなことはなんでもなくなる。囲碁ソフトが人間よりはるかに強くなれば、意外性のある着手でも、機械にしてみれば当たり前の到達点に過ぎない。芸術は、人間の魂の問題に収斂してゆく。全ての芸術は私芸術という事にだったのかもしれない。自分が自分の為に描くという行為を通して感じるもの。これだけは残ってゆく。絵画で大切なことは自分の生き尽くすということの関連である。自分が生きるという事を掘り下げ、深く実感することに役立つ行為が絵画することであろう。命というものの全貌を味わう。芸術はそうした側面が、大きく占めていた。芸術の本質はそういうものであったはずだ。

芸術としての絵画は自己表現である。自分を絞り出すことだ。それは後期印象派の人たちが見出した新しい芸術の思想だった。それが19世紀の成果だとすれば、20世紀はそれを商品化し経済に乗せた時代なのだろう。その結果絵画というものが芸術であるという事から外れた。芸術であるという事は、人間を変えるものと考えていいのではないか。絵画に他人を変えられる力があるのかどうかは、次のことであるが、まずは自分を変えてゆくものに絵画が成らなければ、芸術とは言えないのではなかろうか。自分を突き詰めたところで、大したことはない。私の絵もそうである。そうではあるが、自分にとっては自分以上のものはない。自分という存在を突き詰めることが興味深いことだ。自分が生きるという事はそういう事だではないか。その為の方法が私絵画としての水彩画を描くという事だと考えている。何度も同じことを考え書いている気がするが、このことはいつも何度でも確認しなければならない。

 

 - 水彩画