産経記者加藤達也氏の恥ずかしさ。
産経新聞のソウル支局長、加藤達也氏が無罪になった。当然の判決だと記者会見で発言した。恥げもなく顔を出している。どの面下げてとつい顔をまじまじと見てしまった。さすが産経新聞の記者だという顔をされていた。どれだけ産経新聞の記事の信用を落としたか。まあ以前からそうは信用は高くはなかったが。こんな記事を書いてしまって新聞記者として恥ずかしくないのかという事だ。報道の自由などと振りかざす前に、自分の記事のくだらなさが恥ずかしくないのかと、あきれてしまった。そもそも問題の迫り方が、大統領の密会疑惑の噂話という幼稚さだ。新聞記者というより、低俗雑誌の記者という精神なのだろう。産経新聞低俗を公言しているようだった。こうして、自らの尊厳を貶めているのだ。そのことにも気づかず、報道の自由を口にするところが、ますます情けない。がせねた記者が口にするようなことではない。
韓国に報道の自由があるのかという、問題の前に、何故、報道の自由を守るために、自らの記事に責任を持たないかである。報道の自由の背景にある思想は、報道が持たなければならない批判精神である。大本営発表を垂れ流しているだけであれば、報道の自由など考える必要もない。権力から、圧力が加えられるという事は、権力に対して批判精神があるという事だ。自分の思想を持ち、権力が独走し、自由を圧迫し、人間の権利を踏みにじることがないかを、監視してゆくのが報道の役割なのだ。産経新聞はそもそも、韓国のあらさがしをするために、それが政府の望むところだと考えて、提灯記事を書いているのだ。その目的でくだらない記事を書いておいて、慌てて報道の自由を持ち出した。それを慌ててバックアップしたのが、安倍政権である。日本のほかの報道機関も一斉に報道の自由を持ち出したが、一社ぐらい産経新聞の加藤記者ののくだらなさを指摘する報道はないのかと情けない限りである。
自由を守るためには互いの節度が必要である。ブログに対するコメントでも根拠のない誹謗をついでに書く人が多数いる。私と違う考えの人が存在するのは当然である。そうした人と議論することは大切だと考えてきた。ところが議論の前に、根拠のない中傷を書いてしまう人が実に多いい。産経新聞の加藤氏も同様なのだと思う。考えの違う相手が憎いので、考え自体を批判するのでなく、誹謗内容で信用を無くし、考え方の信用を落とそうとする。そのたぐいのコメントは削除している。かかわること自体が無意味だからだ。ところがそういう人に限って、コメントを削除するのは自由な議論を侵害している。正面から議論しないのは、卑劣な行為だと主張する。他所の国の大統領の根拠のない中傷記事を書いてしまった人間など、相手にする必要はない。そんな人間に報道の自由などそもそもないと考えている。
本来であれば、産経新聞の責任者がこの記事の内容に対して、謝罪すべきなのだ。それがすべての始まりである。根拠のない噂話報道をもとに、他国の大統領の誹謗記事を書いたことは、新聞社として間違った行為でしたと謝罪すべきことだ。謝罪をしなければ産経新聞の信用がますます下がるという事だ。ところが記事の内容に関しては、誰も問題にしない。韓国の報道の自由の問題にすり替えてしまった。この姿勢は報道の自由を制限したことになる。つまり自社の記事は、権力の片棒担ぎなので、先頭を切って他国の中傷記事を今後も書かせていただきます。という宣言になってしまった。権力におもねることは簡単なことだ。最近どこの報道機関も権力批判の矛先が鈍ってきている。灰色の霧が立ち込め始めている。おかしいと思うことを書きにくい状況があるのだろう。それは、経営という圧力が考えられる。政府批判をする報道には企業広告を載せるなと自民党には主張する人間がいた。これがボディーブローになっているのだろう。