石垣島の田んぼを描く
石垣では絵を描いた。10号の絵を4枚描いた。毎日絵を描いていたという感じである。田んぼと畑の絵である。島中農地としてよく整備されている。島の南におもと岳という山があり、500メートルある。そのほかにも、10峰ほど山がある。程よい山がある島というのは、実に美しいしものだ。美しい自然だから絵を描きたくなったわけではない。昔ならこういうところを描いたなというような場所を、今は描きたくならない。今は自然と人間の関わり合いの中で、程よい落ち着きを見せた畑というものが描いてみたい。石垣は11月の20日で連日30度を超えている。太陽の光の角度は小田原の真夏と同じくらいの感じだ。じりじりとした日差しが、地面を焼いているようだった。この光が表わしている、石垣の田んぼが面白い。実った稲と、刈り取られたばかりの稲株。その隣で、代掻きをしている。いつでも田植ができる。そして必ずしも収穫できるとは限らない。これが石垣の田んぼのようだ。
稲が根元からねじ切れるというほど、自然が厳しい場所だ。やられてもまた立ち上がって自然に向かってゆく。そういう強い意志を感じる田んぼだ。絵では、他人事のように美しい自然とのかかわりと言えるのかもしれない。傾斜地には石垣牛の放牧地や草地も広がる。サトウキビ畑が一番多いいかもしれない。しかし、本島や宮古のサトウキビ畑のように、ザワワという感じではない。起伏があるから、背の高いサトウキビを上から眺めることになる。もぐりこんで見上げるという感じではない。サトウキビというものも、いつの時期でも植え付けから刈取りまでなんとなくてんでのようだ。地域でこぞって同時に行うということではない。それぞれの仕切りで、進められているというところが、自由で自主独立の気風を作ったのかもしれない。厳しい自然に立ち向かい、やられてもめげない精神を確立させたような気がした。それは絵を描いてそう考えるようになった。
石垣ではお米が自給以上に取れていた時代がある。蓬莱米の時代である。蓬莱米は台湾のお米である。それが沖縄でも作られるようになった。そう思っていた。ところが八重山毎日新聞の記事によると、蓬莱米は台湾統治時代に日本人の農業技官が改良して、台湾向きのお米を作ったということだ。それまで、台湾ではインディカ種だったものをジャポニカ種に変えていったということのようだ。熱帯向きのジャポニカ種の改良が蓬莱米ということらしい。この八重山無い日新聞というものは、とても内容の濃い新聞である。こういう新聞なら、毎日でも取りたくなる。高校生の俳句が出ていて。覚えているかな。えーと、「天高し ぐらり頬杖(づえ) 5時間目」実に石垣らしくていいと思った。この新聞の肩書には、「視点は世界 視点は郷土」とあった。家庭学習の強化のポスターが目立ったが、勉強だけじゃやない。牛も、サトウキビも、お米も、実に厳しいことになるだろう。石垣の農業がいつまでも続くことを願う。
おもと岳の奥深く入った。それは深い熱帯のジャングルそのものだ。流れる川が幾重にもある。本島のやんばるのジャングルよりも、怖い感じに身がすくんだ。八重山タイムス紙には、西表の小学校には父兄ともども、島を横断する行事があると書かれていた。今年は8時間かかったが、無事横断に成功したと書かれていた。何か、成人の儀式を読むような気がした。石垣には人の立ち入れない場所がある。人が暮らすすぐ隣に、簡単に入ることができない場所がある。放牧地の向こう側は、自然であり、境界がある。それは自然を敬うというより、緊張関係になる。夜そのあたりにごろんと寝転んで寝てみようなどと思える自然ではない。しかし、一歩距離を取ってみれば、限りなく美しい島である。