秋の篠窪
秋の篠窪に描きに行っている。やはりいい所だ。篠窪の畑は冬野菜と、菜の花の緑に満ちていた。春に通ったところに行ってみると、惹きつけられるところと、そうでもないところがある。そして気づかなかった場所がとても気になる。春と秋では色彩が違う。篠窪には田んぼがあるわけではないので、果樹と野菜である。そして雑木林である。急斜面に苦労して畑が切られている。この畑は以前は麦だったはずだ。戦後の食糧増産の時代には、篠窪あたりはほとんどの場所が麦畑になった。それは舟原あたりでもそうなのだが、陸稲もあったそうだ。水と薪が近くもありところが、暮らしやすい場所とされていた。あしがら地域には嫁にやるなら、山田か内山、という言い習わしがある。水が家まで来ている。裏の山で薪が取れる。昔はこういうところが良いところなのだ。私の育った藤垈の家もそういう場所だった。今の時代では娘を嫁にやりたいような場所が、人が住まない場所になっている。
篠窪は大井町と秦野の境にある集落である。タクシーで行くなら新松田から行くとある。暮らしは渋沢の方向に出る方が便利なのではないだろうか。小田急線が新宿から、小田原までの間で唯一人家が途切れる場所がある。その場所から南の方の、急斜面を見上げた、その上の台地が篠窪のあたりになる。篠窪は富士山が見える場所があったり、相模湾が見える場所がある。ミツバチを飼われている方がいて、その「蜂花苑」が菜の花を休耕地だった場所にどんどん広げている。その勢いがあって、集落全体の農地に活気がある気がする。本気で作られている畑というものは絵に描きたくなるものだ。描きたくなるのは、たぶんその畑の主の心意気である。自然には自然に戻そうという圧倒的な力がある。人間は常にこの自然の力を交わしながら、畑を作ることになる。
自然と人間が暮らしという形で折り合うものが、里山である。畑以上に薪炭林ということが里山を作り出す。畑の10倍もの面積がなければ、人間は燃料を得ることが出来なかった。エネルギーの供給ということでは1町歩の山林が必要だった。子供のころ12月に入るとの薪の生産の重労働が3週間ほど続いた。子供の私にはそれが楽しい作業だった。子供でも本気で労働力として、評価された仕事だ。終わると賃金をもらった記憶がある。この薪づくりはある年から、突然中止になった。プロパンガスが来たのだ。中学生のころだったか。叔父さんにお嫁さんが来たので、もう薪の暮らしは出来なくなったのだ。あの薪を作るということが、100家族が住んでいれば、100町歩の山が管理されるということになる。もし炭焼きを生業にする人がいれば、さらに広大な山が管理されてゆくことになる。
人間の手入れで出来上がっているのが、里山の風景である。だからもう里山風景というものは、失われた景色ということかもしれない。それでも自然に戻ったものはまだいい。景色で一番いけないのが家である。大半の家がメーカーの工場生産品になった。こういうものを絵に描く人はいないだろう。風景に溶け込まないという一番の原因は、なじまないということだ。時間の経過とか、繰り返された手入れで出来上がるという感じがない。工場製品だからいけないというより、暮らしの方が変わって、篠窪でもたぶん大半の人が、勤め人になったということだろう。だから家を描きたくなるのは農作業小屋である。よほど風景に入り込んでいる。篠窪の畑は急斜面であるのだが、意外に機械が入っている。機械が入るだけの道が張り巡らされている。この道のつけ方というのも絵になる場合とそうでない場合がある。