強制労働と自由
日本の明治の産業遺構が、世界遺産になった。安倍政権は大喜びしているが、松下村塾が入ったからだろうか。それだけじゃなくて、観光客が世界から来てくれて、地方の活性化につながると考えるからだろう。遅れたアジアの一国が、欧米に学んで、けなげにがっばった産業遺産ということで記録されるのであろう。松下村塾が一体という意味がわからないが。今回の進めかたで感じたのは、日本の外交力の低さである。韓国は日本の申請に反対と表明した。過去に強制労働のあった施設を産業遺産にするのは問題だと主張した。ところが、日本政府は過去の問題に触れたくない。明治期の施設を産業遺産にするのだから、韓国人労働者の徴用に関しては、関係がないと国際的には筋違いの反応をしていた。世界から日本は侵略戦争をし、過酷な植民地支配をした国という見方が普通の見方なのだ。韓国の宣伝力もあり、産業遺産に賛成してもらえるなら、強制労働も認めようということになった。
何か英語の表現でどうだこうだ説明しているが、玉虫色どころか、あれは明らかに強制労働があったという根拠になる表現と受け取れる。against their will」(自分の意思に反して)、「 to work」(強制労働させられる)英語は理解できないが、実際を現している言葉だと思う。forced laborが強制労働らしい。韓国人だけでなく、日本人も私の母は名古屋の繊維工場で、forced to workしていた。父は軍隊に7年もforced to workしていた。それで人生の方向が違ってしまった。もし、戦争がなければ父は民俗学の学者になれたのかもしれない。子供である私にも、残念な悔しい思いがある。朝鮮人にしてみれば、なぜ日本のために自分の人生が、おかしくなったのかという怒りがわいてきて当たり前のことだ。その息子にもきっと同じような思いがある。富岡製糸場のときも、女工哀史をきちっと記録しなくてはならないと思った。
明治期の脱亜入欧は日本人のその後の方向にとって何であったのか。追いつけ追い越せで、何を失ったのかは、むしろこれで考える機会が保障された。失ったものに気づかなければ、日本人は近代を乗り越えることができないはずである。それは、絵を描いて、日本鶏を飼い。金魚を育て。ラン栽培をやり、田んぼをやって、江戸時代の日本を感じて知ったことである。西洋に追いつくことはできた。そしてどこに行くのかである。どんな国を目指すのかということになる。今のところ日本がまねしているのはアメリカのようだ。しかしどうあがいても日本はアメリカにはなれない。よく頑張ったが、がんばるモデルがアメリカである以上日本の限界は見えている。グローバル企業の問題も出てくる。経済優先で失うもの。文化というものがどうなるかである。明治には日本語を捨てて英語化しようという考えすらあったのだ。今も企業からそういう声が出ている。
なりたい自分というものは、日本という文化抜きにして存在しない。私は見るということを大切にしているが、見るということは文化を通してみるということになる。富士山が美しいという背景には、自然遺産になるほどではないが、文化遺産と言われる歴史の重みがある。山が美しいと思うどこかに、美しいと感じる日本の文化がある。日本人とアラブ人では美しいの基準が異なる。日本人が日本の水土からくる文化を捨てて、グローバル化するなど、あり得ないことだ。人間は日々の日常の暮らしから出来上がるところが多いはずだ。その日常を深めること以外に、なりたい自分に近づくことは出来ない。その日常の暮らしを自分の意志で選択できるということが、人間にとって最も大切なことだ。国家による強制労働はあってはならないことだ。徴兵制もあってはならないことだ。二度とそういうことが起きないように、明治の産業遺産の中に記録しておくことだ。