日本全国のダッシュ村

   

志賀高原:田の原湿原 中盤全紙 ファブリアーノ この場所もたぶん20枚くらいは絵がある。100枚は描いた場所だ。それくらい面白い場所だ。高さを変えて、色々の視点で描いてみている。

ダッシュ村のあきおさんは亡くなられた。亡くなられた後で、あきおさんの評価はますます高くなっていると思う。あきおさんの伝統農業の知識はあきおさんとともに消えた。しかし、日本には無数のあきおさんが居る。このことを引き継いで行くのが、私達の目標だ。ダッシュ村は福島の浪江町にあった。おおよその場所は見当がついた。画面に映る山や川の様子で、福島あたりと言うことは分った。それも中通りよりは海に近いだろうと思っていた。山の木の何とない木の様子が参考になった。小田原の山より、福島の山は少し緑が重い。日本中絵を描いて歩いたので、その違う空気は感じる。その違う空気の様なものを描きたいと考えてきたのだ。それは、見えているのに、描けないものだ。今書こうとしたのはそのことではなかった。あきおさんは、原発事故で浪江町を離れた後、日本全国の伝統農業を回ることになった。それがあきおさんの日本農業ノートである。ダッシュ村の制作意図が良く分る。

現在放送中のダッシュ村では無人島で暮らしを再建する話をやっている。子供のころ読んだ、15少年漂流記を思い出す様なわくわく感がある。瀬戸内海の中くらいの大きさの島だ。以前は集落があったようだ。日本にはこうした放棄されてしまった集落が、相当数あるはずだ。どこの集落もそこに人間が暮らしを切り開いた、深い思いと、努力の集積で出来たはずだ。1000年を超える歴史がある集落だって、沢山あるはずだ。今無人島に戻ってしまった島も、江戸時代以前であれば島暮らしはむしろ豊かな暮らしの地であったはずだ。日本の豊かな自然は、日本人のふるさとだ。軟着陸地点だ。辺境の無人島の国境争いどころではないのだ。現に多くの人が暮らしていた島から人が離れていっている。アノネノネの清水国明さんは最近そういう無人島の再生をやっているらしい。無人になった集落と言うことになれば、全国にいくらでもある。日本人がそういう所で暮らしを再生できるのかは、これからの重要な課題である。

もう少し若いころであれば、どこかそういう所に暮らし始めたかもしれない。今はさすがに、新しい場所に移住することは断念している。次に移住するのは、どこかの老人ホームではないか。30代に移住場所を探したときの条件は、水と道路があると言うだけだった。今放棄さされる集落は当然、道と水はある。やる気さえあればこれで十分である。ダッシュ村は伊根の舟屋を移築したりして、とても凝っている。私なら、土嚢袋ハウスを作る。これなら根気よくやれば、一人で1ヶ月もあれば、何とかなりそうだ。昔、こういう家を知らなかったので、配達付きでイナバの物置を買った。山の奥まで届けてもらった。それを組み立てて、小屋として暮らした。水はその頃はなかったので、屋根からの雨水を溜めていた。飲み水分は山の下から背負って上がっていた。水を分けてもらえるようになったのは、1年以上経ってからだ。良く考えれば水だってなくても暮らせないことはない。

ダッシュ島には、まだ畑は作っていない。畑を作ったり、生きものを飼ったり、そういうところまで進めてもらいたい。それには常駐する人がいなければ出来ないだろう。私が自給生活を始めたのは今のトキオのメンバー位の歳だった。こんなに面白い経験はないと思う。体力のある内に、人生の中で一回はやってみる価値がある。私は何もない山の中で始めたのだが、もともと集落だった所ならば、楽なものだ。畑でも、田んぼでも一度耕作されたことのある土と言うものは、山に完全に戻っていても、全く違うものだ。そうあきおさんの知恵が必要になる。あきおさんの伝統農業の知恵は、そして自給で暮らしを立てる知恵は、今消えかかっている。もう消えてしまって、手探りで再生するしかないものもある。暮らしの知恵と言うものは、実はやってみなければわからないことばかりだ。そしてそれを見る目と手を持ているかである。トキオの人達もずいぶん逞しく成った。貴重な記録がダッシュ村には詰まっている。

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