朝日新聞はどうしたの。
下田の畑の庭 中盤全紙 ファブリアーノ 美しい庭を美しく描こうとした。また描くつもりだ。
朝日新聞が最近2つの記事で話題になっている。二つとも吉田証言と言う所が不思議だが、従軍慰安婦誤報の32年経っての訂正記事と、福島第一所長の事故後の吉田調書の暴露だ。気になって久しぶりに朝日新聞の紙面をじっくり読んでみた。そこで驚いたのは、文章と内容の劣化である。昔は報道文の事例のように思っていただけに、悪文が多いいのに驚いた。そのことはあとでもう少し細かく触れるにして、さらにびっくりした池上彰氏のコラム掲載拒否である。池上氏の新聞斜め読みは、いわば外部評価である。自分の少々都合が悪い記事が出たからと言って記事の掲載を拒否するようでは、もう新聞としての生命が終わろうとしているとしか思えない。今日になって「池上彰さんの連載について おわびし、説明します。」という記事が出ている。掲載拒否の理由が関係者への脅迫まがいの行為の激化を心配してとある。新聞社たるもの脅迫に負けるのが言い訳か。ここでも責任の所在と今後の対応には触れていない。マスメディアが衰退することは、国家として深刻に受け止めなくてはならない。
池上氏の記事は、批判を受けて掲載することになった。これを読んでみると、当たり前過ぎて、この程度の記事を掲載できないとした、判断力の低さに愕然とする。池上氏の主張は記事の訂正をしたなら、謝罪をするべきだとしている。「過ちては改むるに憚(はばか)ることなかれ」と池上氏はコメントしている。報道機関が間違う等、当たり前のことだ。誤報道等必然のことだと思う。報道の正否を判断するのは、読者である。マスコミと言うものが絶対に間違わない。祭り上げるから、腹を立てているのだと思う。どの新聞もテレビも間違う、受け手に多種多様の情報を見分ける能力がなければだめだ。子供の頃、近くで火事があった。その火事の記事が新聞に出た。その家の職業を間違えていた。新聞と言うものはこの程度の物だ。近所だから間違いに気付いたけれど、全部がこんなものだと思って読まなければならないと思ったものだ。
誤報道以上に問題なのは、池上氏の記事を掲載しないと一度でも判断した、上層部の人達のことだ。反省がないどころか、言論の自由という自らの存立基盤を否定したのだ。本来報道と言うものは、冷静な客観的判断をする人の記事を、客観評価として設けるべきものなのだ。それが新聞斜め読みであったはずだ。にもかかわらず、掲載拒否をするということは、内部の知性は崩壊していると言える。池上氏も朝日新聞も、従軍を取っている。私なら取らない。それでは間違えの部分を含んでいる可能性があるとは思うが、従軍は取らない。その方が本質を表していると思うからだ。池上氏の記事を掲載したことを、編集長は自浄作用のように、まるで反省のない視点から始め書いている。これがダメ体質の表れだ。慰安婦記事の訂正と同じことだ。掲載拒否を何故一度はしてしまったのかが、最も重要な間違いである。間違いは誰にでもある。2度とこういう間違いが起きない為には、どのように編集部を建て直すかを示すことが、報道機関としての取るべき行為である。
たぶん、もうそういうこともできない新聞に成ったのだろう。この紙面の全体の迫力のない文章はそういうことを表している。社説では谷垣幹事長の生きる道と題して幹事長になった谷垣氏のことを書いている。谷垣氏を穏健な政治信条をもつとして、保守色の濃い安倍首相とは肌合いを異にする、と書いている。安倍内閣の改造に当たって、書くべき社説であろうか。谷垣氏では主題から外れている。重要な視点は、今回の安倍人事は珍しく安倍氏自ら行ったと感じられる点だ。この布陣はなかなかなものだと一見感じた。政策については外部発注のようだが、人事については自分の判断である。人任せにすることと、自分のやることを使い分けている所が、さすが人形総理大臣である。その自らの人事では、河野太郎氏が入閣しない、女性でも小池百合子氏、野田聖子氏は外す。石破氏が地方創生大臣で入閣と言うあたりに、安倍氏が対抗馬を嫌う、弱気の本音が見える。