園芸療法のベンチ

   

岸辺の眺め 中盤全紙 ファブリアーノ この絵は少し描けていると思う。海に向かい合うということは、3,11の大津波である。絵であのことを表すとすれば、どうなるのかということだ。

畑の家から頂いたベンチとテーブル(吉田さん撮影)

畑の家が活動を休止すると言うので、沢山の農具を農会で戴いた。畑の家は田丸さんと言う方が運営されていた町田の方の活動である。バイオセラピーとか、園芸療法と呼ばれ、気持ちが落ち込んだ人が、農作業をしながら回復をゆっくりと探す場所である。私自身が畑の作業で、自分を維持してきたような気まするので、人間が農作業を通して元気になるというのは、体感的に分る所だ。畑の家の活動が休止するのは、残念なことではあるが、田丸さんの様な方が存在しなければできないことだと思うので、35年続いてきたということが、十分以上のすごいことだったと思うしかない。この片づけの作業に行けないで本当に申し訳のないことだった。農の会の何人かの人が出かけてくれた。それで、帰りにベンチを戴いてきてくれたのだ。機械小屋の横に置いてあったのだが、今度、欠ノ上田んぼで使わせていただくことになった。ベンチを見る都度畑の家を思い出すのもいいかと思う。欠ノ上田んぼには、川沿いに栗畑がある。ここが木漏れ日の素晴らしい空間だ。

農作業療法と言うものがある。農作業を通して、気持ちの回復をはかる。田丸さんの強い人格を思うと、こうした療法はかかわる人間次第だと改めて思う。私の僧侶だった祖父は、お寺で精神疾患の患者を預かる仕事をしていた。それは、お寺の隣にあった、お滝の森と言う場所に流れ落ちる滝があった。その滝に打たれることで、気の病から回復するという、江戸時代から続く治療の場所があった。深沢七朗氏もその場所のことを書いている。戦後もまだそういう習慣は残っていた。向昌院は赤十字の記録でも、そうした治療院として記録されていた。だんだん見える患者さんも減って、見えたとしてもお滝の森のさらに奥にある、お宿と呼ばれていた家に泊まるようになった。そのお宿の家は、森の一番の奥にあるのだからずいぶん寂しい家だった。回覧板では遠くではあるが、向昌院のお隣と言うことだった。夜にこのお滝の森を通り過ぎると、モモンガが巨木から舞い降りた。お滝の森も、第2室戸台風で明るくなるほどに大木が折れた。そして、今は明るい公園のようになっている。

畑の家のような活動こそ、これからますます必要とされるものである。しかし、私の祖父や、田丸さんのような人は、めったにいる訳でもない。農の会の活動はやりたい農作業の場を提供するだけのことだから、療法とまでは言えないとしても、ストレス解消の活動に成っている。人間疎外と言うのだろう。人間が生きづらい社会にますますなっている。特に、優しい人には辛い世界だ。人と違う個性を持っている人には、辛いことである。いつでも、そこに行けば受け入れてもらえる場がある。もちろん、農の会に合う人もいれば、合わない人もいるだろうが、農業が好きといことで、自分なりにかかわりが持てるのであれば、良い場所ではないかと思っている。と言いながらも、私には到底、園芸療法的資質が無い。指導したり、導いたりできるようなしっかりしたものを持っていない。だから余計分りやすい、農業技術的なものに傾斜するのだろう。

ダッシュ村には、あきおさんがいた。農の会から沢山のあきおさんが誕生すればいいと思う。その為には、先ずしっかりした農業技術の確立である。自然の循環に関する知識の蓄積である。欠ノ上田んぼは4反の面積である。ここで、色々の農業を学び、次につなげて行くことができれば、これほど素晴らしいことはない。この先、放棄地は増えるに違いない。放棄地が増えると言うことは、水のことでも、獣害のことでも、経営としては困難が増すということだ。自給的な農業者が、放棄地を増やさないように農業にかかわってゆくことは、必要である。そして、田丸さんがやられていたように、農作業にかかわることで、気持ちの回復が図れる場にもなれば、それはそれで貴重な活動の側面に成るだろう。そんな気持ちを覚えておくためにも、畑の家のベンチを置かせてもらった。

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