絵の品格について

   

箱根駒ケ岳 中盤全紙 インド水彩紙 この場所ではたぶん一番描いたのだと思う。家から近いということもあるので、何度でも行く。しかし、納得ゆくような絵が描けたことはほとんどない。

美術ジャーナルと言う画廊が、銀座にあった。その古いビルには須之内さんのやられていた現代画廊が3階にあって、その2階に美術ジャーナルはあった。1階は思雯閣?とか言った古い日本画の画廊だったと記憶する。とても古いビルで手でエレベーターの扉を開け閉めするので、覚えている人もいるかもしれない。残念ながら今は取り壊された。美術ジャーナル画廊は、目利きと言うことで名の通った、羽生さんと言う方がやられていた。羽生さんは須之内さんよりも専門家の間では、絵が分る人だと言われていた。私は羽生さんに絵を見てもらいたいと考えて、手紙を書いた。その後しばらくして、わざわざ山北の家に絵を見に来てくれた。私の絵を評価してくれたわけではなく、努力する機会と言うことで、何回も個展をさせてもらうことになった。そうこうしている内に、羽生さんはタイのチェンマイに行かれた。帰って来た機会に絵を見てもらうことはあったが、私の絵をまだまだと思われていたと思う。申し訳のないような気持ちでいた。そのことは今も続いている。今個展をやらなくなった理由の一つだと思う。

その後画廊もなく成り、羽生さんはまだタイにおられるのだろうか、日本に戻ってどうされているかと思っていた。偶然水彩人の会場で、美術ジャーナルを川越で再開するという話と、羽生さんもお元気であるということを伺った。その川越の画廊から、時々美術ジャーナル紙が送られてくる。ジャーナルと言う位で昔から、雑誌として活動されていた。毎号巻頭言の様なものがあるのだが、それは無署名であるが、たぶん羽生さんが書かれたものだ。「絵で一番大切なことは品格である」毎回そう書かれている。これはまったく正しい見方である。結局のところ、それ以外に絵の良し悪しを言えないということが分る。絵を見極める基準を一言でいえば、画格である。正しい見方ではあるが、その本当の意味はなかなか難しいことになる。商品絵画の時代なので、絵自体がが売れたくてよだれを流している様なものが多いいのは事実だ。これでは当然品が悪い。経済が全ての様な、下品な時代では絵だけ別の世界と言うはずもない。

画格が高い絵の意味を考えてみる。絵にある思想哲学が、純粋で深いということが、画格の大きな要素ではないか。これは分りやすく書いただけで、本当の意味を表してはいない。私の絵に卑しさがあるとすれば、物欲しげな所があるのかどうかである。褒められたいとか、見識を示したいとか、評価されたい、上手く描きたい。さらに言えば良い絵を描きたいという気持ちすらない方がいい。ただひたすら自分の人間と、思想哲学を見つめている所が大切なのではないか。邪念を捨てると言うことなのだろう。このことは結局のところ、自分と言う人間の品格の問題に成る。ここが難しい。自分の品格を高めるために努力し磨くというような意識は、実は卑しい人間を作ることになる。それが乞食禅である。自分が頑張っているというような意識は、最悪の考え方で、一番厭らしいものなのだ。こういうものが絵に出ていると、当然画格は低いものになる。画格は自ずとにじみ出ているもので、品格のある人間の人格を、ただ表しているということになる。品格がある絵ということは、結果なのだ。紛らわしいのだが、品格のありそうに書く絵と言うのが、一番下品な絵と言うことになる。

目利きはこの品格の違いを見定める。描く人間が意識するようなことではないのかもしれない。品格の全貌を考えるのは難しいが、品格のある絵は分る。マチスの絵が好きなのは、品格が高いからだ。他に言いようもないし、考えようもない。最近、ドイツに行かれている水彩人の仲間から、ハガキがきた。その絵ハガキはマチスの墨一色の筆の素描である。絶妙である。立派である。すごい技術でありながら、その技術が全く見えないように書かれている。巧みさが全くない。まさに子供の様に技術なしに描いている。しかもヘタウマではない。普通なのだ。普通であり、驚異的である。何もないようであり、十分である。マチスはそもそもヘタな画家だ。ヘタなままで良かった画家だ。本質が分っていたので、技術的なものが要らなかったのだろう。その脇目をふらない所が、画格の高さになっている。

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