話し合いの意味
小田原評定久野談義という言葉が、久野には残っている。これは後世に伝えなければならない言葉だと思う。小田原評定という言葉は、議論ばかりしていて、いつまでも決められないことを意味している。敗北の受け入れか、徹底抗戦かが、決められないで長引くというのは、第2次世界大戦の日本軍の態度と同じで、小田原北条氏をあげつらうことはない。軍事力に頼るものの敗北はそんなものだ。正しい判断を大名に期待する方が無理という意味にもとれる。それに加えて久野談義とあるのは、小田原評定よりもさらに時間がかかる相談という意味である。地域社会には多数決という考え方がないのだ。とことん話し合って、2晩3晩かけて相談するのが、地域の伝統的な相談方法だ。これは、壱岐での部落の決め事での、泊りがけの話し合いの記録が残っているそうだ。古来、地域にかかわる暮らしの物事を決めるということは、よほどの時間がかかるということである。
農の会でも、会の運営費をどうするかで話し合いがある。もう半年もかけて決まらない。決めてゆく過程で、色々のことが明らかになってきた。農の会の運営にかかる経費が、年間10万円と共有の認識になってきた。そしてこれをどう割り振るべきなのか。市民的な参加者と、農業者的な参加者とは意味が違うから、農業者から会の経費は取るべきではないというのが、農業者自身の意見である。最初は少々驚いたが。経費を負担しない会員がかなりの占めている組織である。払うものと、払わないものの、地位が変化して行くのではないか。払わない農業者は代表にはなれないのか。平らでないというのは良くないなと予感する。税金を免除されている存在の方を選択する感覚は、農業者的感覚なかもしれない。どう決めるのもいいと思っている。みんなが納得できる形であれば、それでいい。決めてゆく過程が大切である。時間をかけると、声の小さい人の声が聞こえてくる。どうでもいいと思っていた人も、考えるきっかけになる。
安倍総理は、96条の改定を主張している。3分の2の縛りを、多数決で決められるようにしようとしている。安易な方向への改定である。こんなことから、憲法改定の論議を始めようとしたのは、ずるい人間なのだろう。堂々と、9条の改定を話し合うことが必要である。正面から、大いに検討してもらいたいと思う。それは、国会での3分の2の縛りの中での議論が望ましい。国会の3分の2の縛りが、話し合いをせざる得ない状況を作り出している。このハードルを越えても、9条を変えなければならないなら、さすがに認めざる得ない。国民投票はその確認のようなものになるだろう。国民自身が国会での深い議論を見守り、何年もかけて考えるべき日本の未来だ。国のかたちを決める憲法論議である。徹底して話し合い考えることこそ大切なのだ。公明党と自民党のいう、熟議を見ればわかる。結論はすでに出ている熟議だろう。どう擦り合わせるかという、頭数の問題だけなのだ。もし熟議と言うなら、その議論の過程を公開すべきだろう。
民主主義では、多数決は正しい手法ではない。日本での決め事は、とことん時間をかけて話し合い、落とし所を見つける。全員の合意や納得が、あるいは反対者が諦めるまで、議論をした。そしてどうしても落とし所がない場合は、信頼できる頭に一任する。ここが重要である。常日頃、地域の頭領を育てていたのだ。今の平等社会は、これが失われた。あの人の言うことならと、信頼される人がいる地域が、よい地域として成長した。頭領を持つ意識は、頭領を育てる意識でもある。天皇と日本人の関係のようなものかもしれない。文を持って治める。信頼し、尊敬できる存在。そういう存在がなくなった社会において、どうやって対立的な話し合いを持てるか。口達者な存在が小泉劇場を演出するような社会や、組織は大失敗をするだろう。ともかく、回りくどいようでも時間をかけて話し合うことが、声の小さい人間の気持ちを大切にすることになる。
昨日の自給作業:代かき、均し、畦塗、6時間 累計時間:36時間