国家資本主義と憲法改定の問題
日本やアメリカやEUはグローバル資本主義国といってもいいのだろう。中国やロシアは国家資本主義の国のような気がする。この違いがこれからの世界経済において、最大の課題ではないだろうか。韓国の場合どちらに入るのだろうか。国を挙げて特定の企業を押したことは確かだ。そしてその企業が世界経済で頭角を現した。韓国としては予定通りの成功なのだろうが、そのことが韓国という国にとって、善悪両面がある。それだけでは、国家資本主義ともいえない。グローバル企業は国を超えた存在である。自己利益を最大化するチャンスを求めて、いつでも、どこへでも移動する。一方、従来の国家は地域に縛り付けられ、国民を背負い込んでいる。国境を越えると言語が変わり、通貨が変わり、法律が変わり、思想が変わる。グローバル企業にとって、国家の存在はやりにくい枠組みである。できることなら、全世界を商品と資本と人と情報が自由に行き交う統一国家の方がいい。と世界企業は考えるのだろう。
自民党の新憲法草案は、扱いにくい日本人を、どうやって世界企業に都合のよい日本人に変えるのかを定めたものである。人権の尊重を求めず、社会福祉には頼らず、劣悪な雇用条件にも耐え、上位者の指示に従い、国防軍に馳せ参ずる人間。これが安倍自民党が改憲を通じて日本国民を従わせようと迫るものである。いつでも都合良く憲法を変えるべく、96条の改定から始まるのである。
韓国も、中国も国を挙げて企業を支援した結果、国内には矛盾ともいえる様々な問題を抱えた。それ以外に競争力を高めるという道が無いということで、国民はさまざまに負担を我慢してきたと思われる。もちろんそのお陰で豊かさのお裾わけにもあずかれるのだろう。しかし、サムスンが韓国の国益を超えて、行動を始めたときどう考えれば良いのかである。その点、ロシアや中国の国営企業は国家と一体化したような企業である。資本主義国家以上の個人の富裕層が登場している。富裕層と国家権力が結びついて国を運営している。この国家資本主義とも言える新しい形はシンガポール、ベトナムのドイモイ路線、プーチン政権のロシアなど、さまざまなパターンがあるようだ。そして矛盾の矛先が、日本という、先に成功した国に向けられている。
勝者がいれば、敗者がいる。勝者が1人居れば、敗者は10人はいる。能力があるものがいれば、能力が無いものもいる。能力が無いのだから、敗者になるのも仕方がない。それでいいのだろうか。そういう社会が暮らしやすい社会だろうか。田んぼをやるときには、さまざまな仕事がある。田んぼの中に入れない人にも、やるべき仕事はある。しかし、会社のような組織になれば、有能な人が必要な数だけいればいいだろう。社会が高度化されるに従い、能力のない人はいらない社会になる。当然のことであるが、能力のない人の収まりどころがない。能力主義は最後の差別だそうだ。一体こういうことを人類は超えられるのだろうか。少なくとも、企業としてはより能力主義を徹底した者が勝者になる。この企業の当然の在り方が人類を不幸にしないか。
勝者の国と、敗者の国を作るということは、世界の人類にとって正しい方向なのだろうか。各国、各民族、それぞれの特徴がある。資本主義的能力ですべての人類に序列を付けるようなことが良い結果を生むとは思えない。競争原理にも、一定の枠を設ける必要があろう。例えば食糧生産などは、その国、その民族の自給ということが守られるようにする。自給したいという方向は、経済的平等を超えて尊重される性質のものではないか。その方が、お互いのために違いない。能力というものを企業的な論理で、色分けしてしまうことは、人間としての重要な資質を阻害していることになる。それぞれがそれぞれの能力に併せて、生きてゆける社会の方がよい社会だと思う。それは国という単位も同じではないか。企業と国が一体化したような形はその国をとてもつまらない国にしてしまうことだろう。